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XXXの仮想化輪廻 - Side: Dahlia

Layer_2/ Adolescence(5)

 右手には警棒を握っているが、左の腕はずたずたに引き裂かれ、血の代わりに花びらを散らしている。人並みの痛覚を持つらしいユークリッドにとって、それは激痛を伴うものであるに違いない。眉間には深く皺が刻み込まれ、肩で息をしている。
「ユークリッド、大丈夫なのか!?」
 思わず声を上げるが、ユークリッドは私の声が聞こえていないのか、じっとシスルを見つめたまま動かない。つまり、まだ、ゲームは終わっていないのだ。私にかけられた制限は、解かれていない――。
 いつの間にか、闇に包まれていたはずの空間は、灰色の路地に戻っていた。いかなる仕組みか、そこはユークリッドがシスルと出会った場所であり、シスルは今までその場からほとんど動いていなかったということになる。
 シスルは石畳を踏む硬い音を立て、色眼鏡をユークリッドの方に向けて、愉快そうに、歌うように言う。
『どうやって見つけた?』
『最初は、闇雲に探していましたけど……、何かが、おかしくて』
 ユークリッドは淡い赤色の目でシスルを睨みながら、言い放つ。
『街のあちこちが、歪んでいるような気がしたんです。お化けからいくつかの記憶を取り戻した時、疑いが確信に変わりました』
 一拍、呼吸を置いて。ユークリッドは、血の滲むような色をした唇を、開く。
『――この街は、目に見えるものだけが全てじゃない。シスルさんは、僕の目には決して見えない場所に隠れたのだと』
 ユークリッドの言葉を受けて、シスルは物分りのいい生徒を前にした教師のように、満足げに口の端を上げて頷いた。
『だが、気づいても、納得するのは案外難しかっただろう?』
『そう、ですね。普通ならあり得ないことですから。でも、この場所ならあり得ると考え直しました。この塔で起こっていることは現実ではないのですから、どれだけ、僕の常識と照らし合わせて「あり得ない」ことが起こってもおかしくはない』
 ユークリッドは一言一言をはっきりと発音していく。それをシスルは、唇を歪めただけの笑顔を浮かべたまま聞いていた。どうしたって、目が隠れている以上、シスルの内心を見通すのは難しい。ただ、ユークリッドの言葉を真摯に受け止めていることだけは、私にも感じ取れた。
『だから、もう一度、確かめようと思ったんです。シスルさんと出会った場所で、何かおかしな点がないか。そこで、本来ならあり得ない「歪み」を見つけました。空間がほんの少しだけずれているような、違和感のある場所』
『上出来だ』
 シスルは手袋を嵌めた両手を打ち合わせる。乾いた音が、人一人通らないがらんとした街に響き渡る。
『いい勘をしてるよ、最初に出会った場所を隠れ場所と疑ったことも、私が残した痕跡を目ざとく見つけたことも。しかし、何故この場所を真っ先に疑った?』
『シスルさんは、アンフェアなゲームをしないと思ったからです。その……、何故かはわかりませんが。だから、ダリアさんの支援が得られない以上、記憶の無い僕が知らない場所に隠れることもないだろうし、隠れた場所に何かしらのヒントが残っているとも思いました』
 なるほど、とシスルは腕を組んで、しばし沈思した。ユークリッドは警棒を構えた姿勢のままではあったが、シスルが唐突に黙ってしまったことを疑問に思ったのだろう、首を傾げる。
『……シスルさん?』
『いや、何。改めて面白いと思ったのさ。アンタが、私のことを少しでも覚えているということが、な』
 今まで、そんなことは一度もなかったから、と言ったシスルの声に篭った感慨を、私は正しく読み取ることはできない。私は観測者であって、守護者ではないから。それに、本来のユークリッドの記憶に連なる人物ではないから。
『それが吉と出るか凶と出るかは私にはわからないが、まあ、アンタは私とのゲームに勝ったんだ。奴の記憶を得た上で、前に進む権利がある』
 シスルは、一つ指を鳴らす。すると、シスルとユークリッドのちょうど間に、虹色に輝く記憶の鍵が浮かび上がった。ユークリッドは、構えていた警棒を収めてそろそろと右手を鍵に伸ばしかけて――中空で、その手を止めた。
『どうした?』
 不思議そうに問うシスルに対し、ユークリッドはしばし唇を噛んだ後に、不意に顔を上げてシスルに向き直った。
『あの、この鍵を手に取ったら、シスルさんは消えてしまうんですよね』
『そうなるな。アンタに記憶を渡せば、守護者の役割は終わるから』
『では、その前に。少しだけ、お話しをしてもいいですか』
 その申し出は、シスルにとっては意外だったのだろう。少しばかり言葉を失い、ユークリッドを凝視していたようだったが、やがて、ふ、と息をついて大げさに肩を竦めてみせた。
『ああ、構わない。私も、アンタとはもう少し話をしたいと思っていたんだ。ただ、残念なことにさほど時間は残っていないようだが』
『……え?』
 ほら、と。シスルは顎でユークリッドの背後を指す。見れば、街並みが少しずつずれて、歪んで、壁や屋根、石畳のところどころが花びらのような薄片と変化して散っていくのが見える。目を丸くして口を半開きにするユークリッドに対し、シスルは溜息交じりに言う。
『今、あそこに見える歪みは、私が生み出したものじゃない。このプログラム全体が少しずつ狂い始めている、その一端といえばいいかな。飲み込まれれば、私も、アンタも、影も形も残さず消え失せるだろう』
 ユークリッドがただでさえ白い顔を更に青白くする。そして、私もそれは全く同じ気分だった。今まで、このような現象を目にしたことは一度も無い。強いて言えば、ユークリッドが記憶を全て取り戻し、己を殺した時、世界が崩れていく瞬間と似ている。
 だが、その「世界の崩壊」が本来あり得ないタイミングで始まっている――。その事実に、背筋が凍る。
 とはいえ、その「崩壊」がユークリッドとシスルの立つ場所に到達するにはもう少し時間が残されているらしい。俄然慌て出すユークリッドをよそに、シスルは記憶の鍵を自分の胸の前に浮かばせたまま、大仰な動きでテーブルの縁に腰掛ける。
『さて、何が聞きたい?』
『……え、あ、その』
 ゆっくり迫る「崩壊」の端に気を取られながらも、ユークリッドは何とか視線をシスルに戻して言う。
『いくつか記憶を取り戻してわかったのですが、シスルさんは僕と親しい友人だったのですよね?』
『親しい? 馬鹿言え、私と奴が親しいわけないだろう……と言いたいところだが、アンタを混乱させるのも悪いか。私と奴は、まあ、いわゆる「腐れ縁」ってやつだ。友人というには少々疑問が残るが、お互いに無関心ではいられなかった。そういう関係だ。最低でも、今、ここにいる私はそう認識している』
 つまり、奴が私について、そう認識していたということだ、と。シスルは苦笑交じりに付け加える。ここにいるのが本物のシスルではないとわかっているユークリッドもまた『そうですね』と苦笑する。
『だから、多分、これは僕自身に対する確認と同じなのだと思いますが。それでも、シスルさんの口から聞きたいんです』
『何をだ?』
『シスルさんが、この試行を――僕が記憶を取り戻すという一連の行為を、どう考えているのか』
 ユークリッドの問いかけに、シスルは『む』と声を漏らし、顎に手を当てて数拍ほどユークリッドの言葉を吟味していたが、やがて首を横に振って更なる問いで返す。
『何故、そんなことを問うのか、聞いてもいいか』
『深い意味はありません。ただ、ガーデニアさんに言われたんです。何もかもを疑えと。この塔で起こる全てと、僕自身の記憶さえも』
 ガーデニアが。そう、シスルが呟いたのは私にもわかった。現実にシスルがガーデニア・ガーランドの人となりを知っていたのか、それともこの塔の中だけの認識なのかはわからない。ただ、ガーデニアがユークリッドに助言を残すということは、今までの彼女には考えられない行動である、ということはシスルの驚きの表情でも明らかだった。
『ただ、疑おうにも、何から疑っていいのかもわからない。だから、手がかりの一つとして、シスルさんにも聞いてみたかったんです。この試行を、一体どう捉えているのか』
 ユークリッドの言葉に、シスルは大げさに肩を竦めて、ゆるゆると首を横に振る。
『私に言えることは何もないな。試行の果てにアンタは記憶を取り戻す。そして、決まりきった結末を選び取るだろう。アンタが私の知っている奴であるならば、まずそうする。そうしなきゃおかしいんだ』
 だが、と。シスルが声を一段下げて、真っ直ぐにユークリッドの顔を見据える。息を呑み、口元を引き締めるユークリッドに対し、シスルはほとんど鼻先が触れるくらいまで顔を近づけて、囁くように言う。
『もし、もしも、だ。全てを取り戻してなお道に迷うなら、ダリアの声を聞いてみたまえ』
『ダリアさんの……、声、ですか?』
『ああ。彼女は、彼女だけは、最後まで君の味方だろうから。おそらく、この塔では唯一、な』
 唯一、という言葉を口の中で繰り返したユークリッドは、どこか不安げな表情になって問う。
『シスルさんは、違うのですか』
『アンタという個人は気に入ってるよ。できれば味方でありたいと思っている。ただ「最後まで」は無理だ。ここで、終わってしまう存在だから』
『……シスルさん』
『いいんだ。アンタもなんとなく感じているだろう、私は本来、アンタとこうして喋ることすらできない存在だ。何しろ、本物の「シスル」は既に死んでるんだから』
 だからこそ、だからこそ。
 悲しみの表情を覗かせるユークリッドに対して、シスルは歌う。澱みも影も見せずに、ただただ高らかに。
『私は、アンタたちに期待してるんだ。全ての下らない思惑を乗り越えて、アンタたちの手で結末を掴み取ってくれ。それが、アンタがこのくそったれな塔を脱出する、唯一の方法なんだから』
 ――そして、ユークリッド、アンタにはそれができるはずなんだ。
 シスルはその機械仕掛けの手で、ユークリッドの胸を強く叩く。
『私がアンタに言えることはここまでだ。あとは、その目を見開いて、耳の穴かっぽじって、アンタ自身の心で見定めろ』
 ユークリッドは、己の胸に触れるシスルの手をじっと見つめて、それから、顔を上げてきっぱりと頷いた。
『はい。やってみせます』
『素直ないい返事だ。奴とは大違いだよ』
 シスルはどこかいびつに微笑んでみせながら、ゆっくりと音も無く迫ってくる「崩壊」の波を眺めて、軽い口調で問いかけてくる。
『ああ、私からも一つ。この鍵を渡す前に、確認しておきたい』
『何ですか?』
 シスルがそちらを見たことで「崩壊」から目を離せなくなっているユークリッドが、心ここにあらずといった様子で言うと、シスルはくつくつと喉を鳴らしながら言う。
『ダリアについて。彼女はアンタに好意を抱いているようだが、アンタはどうなのかと思ってな。今だけは彼女には聞こえないから、正直なところを教えてくれないか』
「嘘つくな、シスル!」
 それはもうしっかり聞こえているではないか。もちろん私の声が聞こえているはずのシスルは、にやにやと笑うだけで応えない。
 ただ――私も、気にならないわけではないのだ。ユークリッドはいつだって、私の言葉を真摯に聞き届け、柔らかな声で答えてくれる。だが、彼の本心は一度も聞かなかった。聞くのが怖いとも思った。
 だが、確かめなければならないことだとも思う。ここから先、二人で進んでいくためにも。
 ユークリッドは一瞬、質問の意味がわからなかったようで、呆気に取られたような顔をして。一拍を置いてから、真っ直ぐにシスルを見据えて答えた。
『わからないんです』
『ほう?』
『僕自身が、わかっていないんです。ダリアさんにどんな感情を抱いているのか』
 ユークリッドは、己の胸元を掴んで、苦しげに言う。
『最初は、どうしてダリアさんが僕に恋心を向けるのか。過去の僕はダリアさんに恋心を抱かれるだけの存在だったのか。そんなことを考えていました。でも、ダリアさんと離れて、わかってきたんです。いくらダリアさんの思いを確かめようとしたところで、僕の不安は晴れない。僕の不安は多分、今の僕自身がダリアさんに感じている感情がわからないからなんです』
『アンタは、ダリアに対して不愉快な感情でも抱いているのか?』
『いえ、これは好意ではある、と思います。ただ、ガーデニアさんに対する恋心とはまるで違います。あんな、身を焦がすような感情ではない。ただ、ダリアさんと離れた今、感じているのは、温かなものが体から抜け落ちてしまったような、心細さです』
 シスルは、しばし真面目な顔をしてユークリッドの言葉を聞いていたが、ユークリッドの言葉が切れた瞬間に、ぷっと吹き出した。これには流石にユークリッドも顔を真っ赤にして声を上げる。
『シスルさん、どうして笑うんですか!』
 シスルは喉からあふれる笑いを堪え切れないようで、くつくつ笑いながらも手を振る。
『いや、すまない。奴は、真面目な顔でそういうことを言い出す奴じゃなかったからな。あまりにも違いすぎて、おかしくなってしまったんだ。何もアンタを笑っているわけじゃない。本当に』
 本当にな、と。笑いを引っ込めて、シスルは静かに繰り返した。
『……その、言葉にできない感情を大切にしろよ、ユークリッド。それは、きっと、アンタにしか持ち得ない、何よりも重要な感情だ』
『え?』
『さてと、もっとアンタと喋っていたいところだが、そろそろ時間切れかな』
 シスルの言うとおり「崩壊」の波は道の向こうにまで迫ってきていた。ひゅう、と口笛を吹いたシスルは、輝く記憶の鍵をユークリッドに差し出す。
『さあユークリッド、立ち止まるな、前に進め。ダリアと手を取り、結末の向こう側へ』
 ユークリッドは、しばし、手を伸ばすことを躊躇った。手を伸ばして記憶の鍵を手に取れば、シスルは消える。だが、これ以上躊躇っていれば、シスルだけでなく自分もまた「崩壊」の波に飲み込まれる――。
 やがて、ユークリッドは顔を上げ、唇を引き結んで、深く頷いた。
 そして。
『さよなら、シスルさん』
 決別の言葉と共に、記憶の鍵に、手を、触れる。
 途端、爆発的に広がる光が、モニタいっぱいに広がって。
『ああ、じゃあな、ユークリッド』
 シスルの、永遠の別れを告げるにはあまりにも軽やかな声が、聞こえた気がした。

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