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XXXの仮想化輪廻 - Side: Euclid

Layer_3/ Senescence(4)

 ゆっくりと、目を開ける。そこには、もはや見慣れてしまった白い天井があって、僕が最初に目覚めたその場所に戻ったのだと知る。
 ほとんど反射的に体を起こして、体の具合を確かめる。噛み千切られたはずの胴体は繋がっていて、骨にも内臓の機能にも特に問題はない。そういうシステムなのだから、当然といえば当然だろうけれど。
『ユークリッド、よかった、目が覚めたか』
 天井から聞こえてくるダリアさんの声は、いつになく、感情的に聞こえた。聞き間違いでなければ、涙を堪えているような――。
「僕……、どのくらい、寝ていました?」
 今まで、僕の主観では「殺されたらすぐにこの場で目覚める」という感覚だったから、深く意識したことはなかったけれど。もしかすると、ダリアさんから見ると、かなりの時間眠っていたのではないか?
 その証拠に、ダリアさんはやけに乾いて掠れた声で囁く。
『二時間ほどだ。今まではすぐ目覚めていただけに、不安で仕方なかった』
 二時間。よく考えてみればこの塔には時計がないし、今の僕は生理的欲求が抑制されているから、時間を把握するのは難しいのだと改めて理解する。ただ、「すぐ目覚める」と「二時間目覚めない」の違いはあまりにも大きい。そのくらいは、僕にだってわかる。
『……もう、目覚めないかと、思った。本当に、よかった』
 よかった。その言葉の中に、ダリアさんが堪えている感情の全てが詰まっている、そんな気がした。言葉を受け取った僕の心まで、きゅうっと締め付けられるような心地がする。
 きっと、ダリアさんの嗄れた声は、ずっと僕の名前を呼んでくれていたからだ。不思議な夢の中で、ダリアさんの声を聞いた、そんな気がしていたから。
「そう、そうです。夢を、見ていたんです」
『夢?』
「僕の主観としても、誰かに殺された時には、すぐにこの場所で意識が戻るんです。でも、今回だけは違いました。いやに長い、夢を見ていた気がします」
『一体、どんな夢だった?』
 ダリアさんの問いかけを受けて、もう一度、夢の形を思い出そうとする。
 まず、頭の中に浮かんだのは、落下の感覚だった。重力加速度を全身で意識する、できればこれ以上体験したくもない感覚。それに、水の中で溺れるような感覚も味わった気がする。ざあざあと、水のような砂嵐のような音色が、耳の奥で響き続けているのがわかる。
 ただ、それ以上のことを思い出そうとすると、意識が遠のくような錯覚を覚える。目覚めたその瞬間は全てを覚えていた気がしていたのに、いつの間にか、僕の手の届かない奥深くにしまいこまれてしまった、夢。
「知らない場所を、ただひたすらに落ちてゆく。そんな夢でした。ただ、そこで、誰かの声を聞いた気がしたのです。とても、大切な言葉を聞いたはずなのに、どうしても思い出せないんです」
 大切だった、ということだけは、はっきりわかっているのに。一体どういう内容で、誰の言葉で、何が大切だったのか、重要なことは何一つ覚えちゃいないのだ。何でこの脳味噌はここまでポンコツなのだろう。記憶を失う前の僕は困らなかったのだろうか。自分のことをすっかり忘れて今の僕が困ってるくらいなのだから、困らないはずはないと思うのだけど。
 ――さあ、断ち切りましょう。
 ふと、耳元で誰かが囁いたような気がした。
 はっと、そちらを向いても、誰もいない。ただ白い壁が立ちはだかっているだけ、で。
『ユークリッド、誰かそこにいるのか?』
「いいえ。でも、誰かの声が聞こえた気がしたんです。ダリアさんには、聞こえませんでしたか?」
『いいや、私には何も聞こえなかった。君の耳にだけ聞こえる声、か……』
 ダリアさんは小さく唸ってから、いつになく張り詰めた響きで言う。
『君の記憶が、何かを報せようとしているのかもな』
「僕の記憶が、ですか?」
『ああ。今まで取り戻してきた記憶の断片が、夢や声という形で君に何かしらの示唆を与えようとしているのかもしれない。全ての記憶が戻るのも近いのだから、そのような変化があってもおかしくはない』
 これも、僕が記憶を取り戻す過程の一つ、ということなのだろうか。それにしても。僕自身の変化や第三層の不快感もそうだけれど、どうしても、気になって仕方ない。
「どうして、ダリアさんは、そんなに辛そうなのですか?」
『何?』
「この階層に入ってから、ずっとそうです。無理なんてしてないと言ってましたけど、ダリアさん自身で気づいていないのかもしれません、けど」
 記憶の欠片を取り戻して、僕が「僕」を認識する。ダリアさんは、それを素直に喜んでくれるし、立ち竦みそうになっていれば、背中をそっと押してくれる。ダリアさんはいつだって、温かな声で僕を支えてくれていた。だから、今まではただダリアさんの言葉を信じて、前に進んでいられた。
 でも、やっぱり。
「ダリアさんの声が、何かを堪えてるようにしか、聞こえないんです」
 ダリアさんは、天井の向こう側――僕の手の届かない場所で、口を噤む。数秒間の、僕にとっては永遠にも感じられる沈黙の後に、深い、深いため息と共に、ダリアさんが口を開く。
『君には、誤魔化しは通用しないとわかっていたはずなのにな。すまない、ユークリッド。君を不安にさせたかったわけではないのに、上手くいかないな』
「そんな、謝らないでください。僕はただ、心配なんです。ダリアさんが不安に思うことがあるなら……、せめて、教えてくれませんか。それとも、僕には言えないようなことですか? 僕は確かに、ダリアさんの側で、助けられるわけではありません。こんな僕が何を言ったところで、無駄なのかもしれませんけど――」
『そうじゃない。そうじゃないんだ!』
 ダリアさんは慌てて僕の言葉を否定する。僕も、つい胸の中のもやもやした感情に煽られて卑屈なことを言ってしまったけれど、ダリアさんが僕のことをそんな風に思っていないことくらい、わかっているじゃないか。ダリアさんの不安を取り除いてあげたい、そう思っている僕が卑屈になってどうする。
 ごめんなさい、と。口の中で呟いて、唇を噛む僕に対し。ダリアさんは、一言、一言、搾り出すように言葉を降らせてゆく。
『私は……、わからないんだ。確かに君の言う通り、私自身が不安で仕方ないんだ。これからの君のために、君の幸せのために、私は何ができるのか。
 君は、さっき、幸せなんてわからないと言った。それでいいのだと、私は思う。君を定義する記憶を欠いた今の状態で掴めるものでもなし、仮に全てが手の中にあろうとも、幸せの定義を探して生涯彷徨い続ける者もいる』
 幸せとは、何なのか。
 例えば、ガーデニアさんにとっての幸せは彼女についての記憶を取り戻した今でもわからないままだし、シスルさんの幸せは何となくわかっていたけれど、かつての僕の思想とは相容れなかったことを思い出す。
 それに、誰だっただろう。思い出そうとするたびに、重大な欠落を訴える誰か。その誰かは、そもそも「幸せ」という言葉の意味すら、理解していなかったと思う。
 ――今の僕が、そうであるように。
『だから、君ではない私がこんなことを言うのは筋違いなのかもしれない。だが、この塔の終わりに、君が全てを取り戻す時に、私は君のために何ができるだろうと。終わりが見えてくるにつれ、ずっとそればかりが頭の中に浮かんで仕方ないのだ。私がこうしていることは、果たして君が幸せに近づくための助けになっているのかと』
 君ではない私。僕はどこまでも僕であって、ダリアさんではない――。
 その言葉が、消えた夢の切れ端に触れたような気がしたけれど、今は忘れてしまった夢よりも、目の前の――目には見えていないけれど――ダリアさんの思いを受け止める時だ。
「考えすぎですよ、ダリアさん。僕は、十分ダリアさんに助けられてます。幸せの記憶を含めた全てを取り戻すために、力を貸してくれているじゃないですか」
『だが、それこそが、私のエゴでしかないとしたら?』
 ぽつり、と。落とされたダリアさんの声は、酷く、乾いた響きを帯びていた。
 僕は、何も言えなくなってしまう。エゴ。その言葉を、僕は否定できない。否定するのもおかしい話だ。だけど、このまま、口を閉じていてはいけないとも、思う。
 ダリアさんはふっと軽く息をついて、無理に明るい声を出す。
『いや、それこそ、考えても仕方の無いことだな。それに、君も、こんな話をされても迷惑なだけだろう』
「迷惑なんて! そんなことありません!」
 僕は、自分の口をついて出た声が、いやに大きくなってしまったことに自分で驚いて、恥ずかしさに頬が熱くなる。前にも同じようなことがあったけれど、どうも僕はまだ、感情の制御が上手くできないらしい。
 ただ、口を開いたからには、きちんと伝えなければならない。僕が、この胸に抱いている思いを。
「エゴの何が悪いんですか。一度限りの人生、自分のために生きなくて何のために生きるんです。僕だって、僕自身が記憶を取り戻すために、ダリアさんの力を借りてるんです。そこにエゴが無いわけがありません。それに」
 ああ、どうしてここに、ダリアさんがいてくれないのだろう。いや、ダリアさんと向き合うために、僕は前に進んでいるのだ。そうしたいと、思うだけの理由があるのだ。
「――ダリアさんのエゴのために、僕を助けてくれるというならば。僕は、ダリアさんにとって、必要な存在だと認められたみたいで、嬉しいんです」
 ダリアさんは、呆気に取られたみたいだった。そりゃあそうだ、屁理屈といわれてしまえばそれまでだ。でも、これでも真剣だ。ダリアさんと一緒にここまで来た僕の、精一杯の思いなのだ。
 しばし、沈黙していたダリアさんは、やがて『ははっ』と小さく笑ってくれた。
『そうか。お互い様だな』
「そうです、お互い様ですよ」
『それなら、あと少し。よろしく頼むよ、ユークリッド』
 ――君が、記憶を取り戻す、その時まで。
 ダリアさんの声は、歌うようで。少しだけ、軽くなった声音は、それでもまだ、少しばかりの切なげな音色を響かせて。
 僕は、その正体がわからぬまま、それでもダリアさんを信じて、頷く。

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