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時計うさぎの不在証明

はじめての風邪の日

「情けない……。風邪で寝込むなんて初めてです」
「いつも無駄に元気だもんねえ、八束」
 普段ならすかさず「無駄にとは失礼な」と言い返す八束結だが、今日ばかりはその元気すらないのか、畳に敷いた布団に横になったまま、申し訳なさそうに太い眉を下げた。
 そんな八束の熱い額に手を乗せ、南雲彰は濃い隈に縁取られた目を細める。八束の枕元には、差し入れとして持ってきた風邪薬の瓶が置かれている。
「ま、仕事も暇なんだ、たまにはゆっくり休みなよ」
 南雲の顔は仏頂面以外の表情を浮かべることはなかったが、いたわりの感情は八束にも伝わったらしい。八束は「すみません」と掠れた声で謝罪しながらも、小さく頷いた。
 それから、アーモンド型の目をくりくりさせて、南雲を見上げる。
「南雲さん、今日は休暇ではなかったと思いますが」
「俺が仕事をサボってるのはいつものことでしょ。俺がいなくても何も変わらないし」
 C県警待盾署刑事課神秘対策係は、多忙を極める刑事課に属しながら、主任の南雲が一日中編み物に励んでいても特に業務に差し支えはない、という怠惰極まりない係だ。何しろ、業務の九割は他の係が押し付けてくる事務手続きの手伝いだ。南雲がいなくても問題ない、というのはあながち誇張でもない。
 ただし、南雲がサボっている裏では、生真面目で仕事熱心な新人・八束が南雲の分まで仕事をしているわけで、八束はジト目で南雲を見上げる。
「お心遣いはありがたいですが、南雲さんは仕事をしてください」
 ――一人で寝込んでいるお前が気になって、仕事が手につかなかったんだよ。
 そんな本音は喉の奥に飲み込み、ただ肩を竦めて八束の冷たい視線を受け流す。
「それはそうと、八束、今日は何か食べた?」
 いくら鈍い八束でも、はぐらかされたのは理解したらしく頬を膨らませるが、質問には正直に答える。
「まだですが……」
「なら、何か作るよ。台所借りるね」
「えっ、流石に南雲さんにそこまでさせるわけにはっ」
 八束は反射的に起き上がりかけたものの、すぐにふらりとして、枕に頭を落としてしまう。南雲は八束の乱れた掛け布団を整えながら言い聞かせる。
「無理するんじゃないよ。熱で消耗してるだろうし、胃に何も入れないまま薬飲むのもよくない。大人しく任せときなさいって」
「南雲さんが、わたしに優しいなんて……」
「おい、俺が普段は優しくないみたいじゃない、それ」
 心外なんだけどー、と言いながらも、八束を観察するのは忘れない。熱は高そうだが意識ははっきりしている。まずはきちんと食事をさせて、薬を飲ませて様子を見てみようと考える。容態が悪化するようならすぐに医者に連絡しよう、と思いつつ。
 南雲にも、罪悪感がないわけではないのだ。八束は、どんな難題を前にしても、無尽蔵にも見える活力をもってことに当たっていた。その八束に寄りかかり、知らず無理をさせていたとも思うのだ。
 だから、今日くらいは自分がきっちり働くべきだ。八束の回復に尽力する、という形で。
「南雲さん、『さっさと治してもらって、仕事を押し付けよう』って思ってません?」
「思ってる」
 それはそれで、南雲の偽らざる本音ではある。
 怠慢な先輩に対するじっとりとした目つきを隠しもせず、八束はついと視線を台所に向ける。
「とにかく、食事は南雲さんのお手を借りずとも大丈夫です。棚の中に、いつものが入ってます。あと、水が冷蔵庫にあるので取っていただけますか?」
「……いつもの?」
 具体的に「何」と指定されていないのが気になりつつ、南雲は立ち上がると台所に向かう。八束が一人暮らしをしているアパート『湯上荘』は、今にも崩れそうなぼろい見かけの割に案外設備はしっかりしており、六畳一間に台所、トイレ、シャワーまでついている。その台所部分に置かれた棚の戸を無造作に引き、
 南雲は、絶句した。
 そこには、黄色い箱がいっぱいに詰まっていた。
 カロリーメイト。
 カロリーメイトだ。見間違えようもない。
 チーズ味、フルーツ味、チョコレート味という、コンビニでおなじみのラインナップが、八束の病的な几帳面さをもって整然と並べられている。それ以外のものは、何一つ確認できない。
 嫌な予感を感じながら、下の戸も開ける。
 そこに詰まっていたのは各種サプリメントの詰まった容器。カロリーメイトでは足らない成分を摂取するためのものだろう、と理性では判断しつつも、南雲はただでさえ普段から消えない眉間の皺が、更に深まったのを実感する。
 こう来ると、冷蔵庫の中身も想像はついてしまう。それでも、一縷の望みをかけて冷蔵庫の扉に手を掛けて、引く。
 そこには、ペットボトルに入ったミネラルウォーターのみ、十本ほど詰め込まれていた。あと、この状態で何の意味があるのかもわからない、脱臭剤が一つ。
 それを認識した南雲は、ついに膝をつき、頭を抱えて声を上げていた。
「うおああぁあぁ」
「な、南雲さん、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもねえよ! これのどこが食事だ!」
 南雲は普段の飄々とした態度をかなぐり捨てて叫ぶ。八束は、声を荒げる南雲を初めて目にした戸惑いを隠しもせず、目を白黒させながらも自分の考えを伝えることは忘れない。
「必須栄養価を摂取するという行為として、最も効率的な方法だと思いますが」
「違う! そうじゃない! 単なる栄養摂取なら点滴でも何でもいい、経口摂取である必要すらねえ! 食事ってのはなあ、食欲を満たしながら、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚全てを駆使して快楽を味わう、人間という種に与えられた至高の時間だ、それをおろそかにする奴は誰が許そうとこの俺が許さん!」
「南雲さんの怒りのツボがわかりません」
 怯え半分、呆れ半分の八束の声が聞こえた気がしたが、無視して台所に立つ。もし食材が切れてたら、と思って持ってきた食材と調味料が役に立ちそうだ。こんな形で役に立つとは思いもしなかったが。
 今まで相対したどの事件よりも南雲に動揺をもたらした棚と冷蔵庫は一旦忘れ――その前に、枕元に水のペットボトルは置いてやったが――ひとまず喉を通りやすいものを作ろう、と思いかけて重要なことに気づく。
「ねえ、八束……」
 ほとんど答えは決まっているだろうが、一応、聞いておく。
「調理器具と食器もないってこと?」
「いえ、薬缶とマグカップはあります」
「それだけかよ」
 振り返って、分厚い眼鏡越しに八束を睨むも、八束は南雲がどうして睨むのかも理解できていないようで、横になったままきょとんとしている。それを見て、南雲はいつになく胸の中が熱くなる感覚に襲われた。
 ――どうやら、俺はこいつに、食の何たるかを教えてやらねばならないようだ。
 そうと決まれば即行動。部屋を飛び出し、隣から鍋と食器を借りて戻ってくる。南雲の知り合いでもある隣室の住人には、後でオリーブオイルを差し入れようと思う。オリーブオイルは万能だ。
 さて、当然ながら炊飯器もないから、米から粥を炊く必要がある。鍋を火にかけて八束の様子を見れば、目を閉じて大人しくしていた。準備をしている間に眠ってしまったようで、すうすう息を立てている。
 無防備な寝顔を晒してくれる程度には、信頼されているらしい。普段あれほど気を張っているのに、妙に危機感が薄いというか、何というか。南雲に変な気はないが、こうも無頓着だとつい心配になる――八束の横に座り込み、そんなことを考えずにはいられない。
 ともあれ、粥が炊けた辺りでといた卵を混ぜ、食べやすいように薄く味をつける。味見した感じでは悪くないと思うが、八束の口に合ってくれるといい。そう、心から思う。
 八束の肩を軽くゆすると、眠りは浅かったのか、すぐに目を覚まし南雲を大きな目で見つめてきた。つい目を逸らしながら、南雲は器によそった卵粥を差し出す。
「できたけど、食えそう?」
「おそらく」
 南雲の手を借りて上体を起こした八束は、盆を膝の上に載せて、器を手に取る。レンゲですくった粥をふうふうと冷ましたあと、恐る恐る口に含む。一連の動作をじっと見守っていた南雲は、八束のどこか虚ろだった表情が、明るいものに変化したのを見て取った。
「これ、美味しいです」
「ならよかった」
「南雲さん、お料理も得意だったんですね」
 南雲にとって、料理は手芸と同じく退屈な日々をやり過ごす工夫の一つだ。普段仕事場で嗜んでいる手芸と違い、今まで八束の前で披露する機会がなかっただけで。
 どうやら、食欲が減退していても卵粥は喉を通るらしく、八束はゆっくり、しかし確かに粥を食していく。南雲もその様子を見て、内心胸を撫で下ろす。
 半分ほど粥を胃の中に収めたところで、八束は小さく息をついて言う。
「こんなに温かなご飯を作ってもらうのも初めてです。何だか、ほっとしますね」
 いつになく柔らかく微笑む八束だったが、その言葉は南雲の中に小さな不安を抱かせる。南雲は八束の背景を全く知らない。どのような生まれ育ちで、どうして警察官になろうと思い立ち、果てにこんな閑職に回されたのかも、何もかも、何もかも。
 とはいえ。
「ほっとしたなら何よりだ」
 それを追及するのは今ではない。美味しそうに粥を食べる八束の頭を軽く小突き、コンロの上の鍋を指す。
「多めに作っといたから、夜と明日の朝は温めて食べてね。毎食、薬はきちんと飲むこと。もし俺が帰った後に具合が悪くなったら、隣の部屋に声をかけろよ、小林には事情話しとくから」
 てきぱきと指示を加えると、八束は深々と頷いてから、ぼそりと呟く。
「南雲さん、いつもこのくらいしっかり働いてくれると嬉しいんですけど」
「やだよめんどくさい」

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