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時計うさぎの不在証明 03:ナインライヴス・ツインテール

犬のいる休日

 ――休みの日だからといって、怠けるわけにはいかない。
 八束結にとって、休日とは自己鍛錬の時間に他ならない。朝のカロリーメイトとサプリメント、そしてこの前隣人に差し入れてもらった肉じゃがを腹に詰め込んだ後は、準備体操からのランニング。それから普段は何だかんだと読む時間を取れない、捜査に関わりそうな書籍――最近はその中に、八束が最も苦手としていたオカルト関連の雑誌も増えてしまったわけだが――の通読と咀嚼。その他にも、休日にすべきことはたくさんあって、そうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。
 それらを全て片付けたところで、窓の外を眺めれば、太陽は随分西に傾いていた。もうすぐ十一月も過ぎ去ろうとしているからだろう、昼が日に日に短くなってきているということを、しみじみ実感する。
 完全に暗くなる前に、もう一走りしてこよう。
 ずっと座って本を読んでいたせいか、体のあちこちが固まってしまっている。今日読み終わった本を畳の上に積んだまま、部屋を飛び出す。
 肌寒さを感じさせる風を受けて、軽い足取りで走り出す。自分の足で走るのは好きだった。地面を踏みしめて、前へ前へと体を押し出していく感覚を初めて体験したその日、八束にとっての人生の第一歩を思い出すから。
 自然と口元を緩めながら、まるで機械仕掛けのような均一のペースで走り続ける。八束のランニングは地図だけではわからないことも多い、待盾市内巡りも兼ねている。今日は、普段バスで通過してしまっている警察署近辺にまで足を伸ばすことに決めていた。
 とてもいい香りがするために、日ごろから気になっているパン屋。隣人の大学生がアルバイトしているちいさな本屋、建物と建物の間に挟まるように扉がある、一体何を売っているのかも定かではない雑貨屋……。
 立ち並ぶ建物の雰囲気もちぐはぐで、統一感が感じられないが、それもまた日々発展を続ける待盾という都市をよく表していた。
 そんな街並みを抜けて、少し開けた交差点に差し掛かったところで、行く手の歩行者用信号がちかちかと点滅しているにが目に入る。無理に横断歩道を渡ろうとはせずに、一旦足を止めて、上がっていた呼吸を整えておく。その間に視界の先の信号は赤に変わり、目の前を車が行き交い始めた。
 速度を上げて流れていく車の一つ一つが、意識せずとも記憶に刻み込まれていくのを感じながら、その一方で、八束の思考は目の前の光景とは関連性の無いものを拾い上げていく。
 例えば、昨日のこと、だとか。
 今日一日、一通りの鍛錬や学習をこなしながら、頭の片隅にずっと引っかかり続けていたのは、昨日の、南雲彰が見せた、いつになく物憂げな表情だった。普段、どこまでもマイペースを貫く南雲が珍しく「落ち込んでいる」と明言していただけに、気になってしまって仕方ない。
 と言っても、それが八束には関係ない南雲個人の事情である以上、どれだけ考えても答えが出ないわけで。次に南雲と顔を合わせた時、まだ様子がおかしいようだったら、もう一度何があったのか聞いてみよう、という結論に達したその時。
 視界の端を、何かが行き過ぎた。
 あくまで視界の片隅に刹那映りこんだだけだったので、それが何であるのかの判断はできなかったが、次の瞬間。
 きゃんきゃんきゃんきゃん!
「ふええ!?」
 突然飛び込んできた耳を劈く甲高い声に驚き、その場に尻餅をついてしまう。次の瞬間、小さな獣が二匹、八束の懐に突撃してきた。「ひっ」と思わず息を飲んでいる間に、八束の視界いっぱいに、縦長の獣の顔が飛び込んでくる。
 それは――、こげ茶色と薄茶色をした、ダックスフントだった。
 ぱっちりとした黒目をきらきら輝かせて、全身を使ってじゃれついてくる二匹をどうしていいものかわからず目を白黒させていると、慌てた様子で一人の女性が駆け寄ってきた。息を切らせた女性は、二匹のダックスの首輪から伸びたリードを手にとる。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫でしたか?」
「は、はいっ」
 大丈夫、ではあるのだが。
 二匹のダックスフントは、尻餅をついた八束によじ登って、ぺろぺろ頬を舐めたり顎の匂いをかいだりとそれはもう好き勝手やっている。どちらも千切れんばかりに尻尾を振りまくっている辺り、歓迎はされている、ようだが。
「噛まれたりしていませんか?」
「それは大丈夫ですけど……、こちらのお二方は、どうしましょう?」
「ああ、もう! ちょこ! まろん! お姉さんを困らせちゃだめ!」
 女性はリードを引き、何とか二匹を八束から引き剥がす。それで、二匹も我に返ったのか、今までの興奮が嘘のように、女性の方へと駆け戻っていく。それでも、ちらちらと八束を振り返り振り返りしている辺り、どうも気に入られてしまったかもしれない、とは思う。
 二匹が八束から離れたところで、改めて、女性が深々と頭を下げる。
「その、本当に失礼しました」
「いえ、わたしも、ちょっとびっくりしただけですので」
 驚き方が大げさに過ぎたことが恥ずかしくて、八束は頬を赤らめずにはいられない。羞恥を隠すためにも足に力を篭めて立ち上がり、きょときょとと首を振る二匹のダックスに顔を近づける。
「かわいいですね。ちょこさんとまろんさんというのですか?」
「はい。こっちのこげ茶の子がちょこ、少しクリーム色っぽい方がまろんです」
「何だかおいしそうな名前ですね」
 八束の率直な感想に「ですよね」と女性も二匹の犬から八束の方に視線を戻して、にこりと微笑む。そこで、八束は初めて真正面から女性の姿を見て……、息を、呑んだ。
 年の頃は八束と同じくらいに見えるが、八束とは対照的にすらりと背が高く、かつ女性らしい柔らかみを帯びたシルエット。肩より少し上で切りそろえられた髪はうっすらと波打ち、午後の光の中に深い栗色を浮かび上がらせている。
 何よりも、八束の目を奪ったのは、そのぱっちりと見開かれた目の色。
 八束のそれよりも明らかに淡い朽葉色の目には、妙な既視感があった。いや、既視感は目の色だけではない。少しつり上がり気味の、しかしきつさは感じさせない目尻とか、色の白い肌とか、ほっそりとした顎とか、目に見えるものだけでは上手く言い表せない雰囲気とか。女性の持つ特徴のあれこれが、八束の記憶のあちこちに引っかかって仕方ない。
 言葉を失って立ち尽くす八束を不審に思ったのか、女性はこくんと首を傾げる。肩の上で、ふわふわと栗色の毛先が揺れる。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ」
 まじまじと見つめてしまっていたことに気づき、慌てて首を横に振る。人の顔を観察してしまうのは、その技能が必要とされている時を除けば悪い癖でしかない。しかし、これだけ観察した上で「見間違い」で片付けられそうにない既視感にむずむずしていると、女性は申し訳なさそうに眉尻を下げて言う。
「服も汚してしまいましたね」
 言われてみれば、尻餅をついた時に袖の辺りが汚れてしまっていた。自分では確認できないが、尻の辺りも多少擦れてしまったかもしれない――とはいえ。
「大丈夫です! これは汚しても問題ない服ですので、お気になさらず!」
 何しろ、八束が着ているのはジャージである。しかも小豆色の布地に白いラインと校章、そして「八束」という刺繍が入っている、どこからどう見ても「学校指定ジャージ」というやつである。
「この辺では見ないジャージですね」
「はい、これはわたしが高校時代に、地元で着ていたジャージなので。今は既に卒業して、待盾で働いております」
 女性はきょとんとした様子で不思議そうに首を傾げ、それから、何かに気づいたような顔をして、頭を下げる。
「ごめんなさい。すっかり学生さんだと思っていました」
 それでも「学生さん」という表現は、どこぞの南雲とかいう男に比べると格段に優しさを感じる。南雲は、それはもうきっぱりはっきりと「中学生にしか見えない」と言い切ってくれるから。
 日々、自らの言動に関しては反省と改善を繰り返しているつもりだが、見た目に関してはいかんともしがたい。南雲曰く「顔立ちや体型はともかく、その野暮ったい服装がよくない」とのことだが、その辺りのセンスはどうにも、八束には理解不能であった。
 そんな、日ごろからの課題を突きつけられはしたが、学生に間違えられるのは八束にとっては日常茶飯事の一つである。申し訳なさそうな顔をする女性に向かって「気にしないでください」と笑いかける。
「よく間違われるのです。一応、これでも警察官なのですが」
「……警察の方、ですか?」
「はいっ」
 快活に返事をする八束に対し、女性は薄い色の目を瞬かせ、少しばかり奇妙な表情を浮かべた。それは、八束の目から見る限り「戸惑い」にも似ていた。
「どうかなさいましたか?」
 ほとんど反射的に質問をすると、女性は「あ、いえ」と言葉を濁した後、しばし視線を虚空に彷徨わせていたが、やがて意を決したように八束に視線を合わせて口を開く。
「実は、私の兄も待盾署で働いているので、お知り合いだったりするのかな、と思いまして」
 ――兄。
 その言葉に、今の今まで意識の外に追いやっていた既視感が蘇る。偶然の一致というにはあまりにも似すぎているけれど、どうにも確信が持てなかったそれを、八束は思い切って言葉にする。
「そのお兄さんって、もしかして、南雲彰さんっていいませんか?」

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