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時計うさぎの不在証明 02:ワンダリング・ウォーターインプ

罪と正義と

「――それの、何が悪いんですか?」
 わかるはずが、なかった。
「河童のミイラを盗むという行為はれっきとした犯罪です」
 犯罪、という言葉に翔が身をびくりと震わせる。だが、翔のしたことは間違いなく罪だ。八束は「翔さん」とはっきり彼の名を呼び、言葉を続ける。
「今からでも、しかるべき手続きを経て真実を明らかにし、法の審判に委ねるべきと思います」
「うん、八束はそう言うと思った。だから、俺も黙ってたんだよ」
 やれやれ、とばかりに南雲は大げさに首を横に振った。何か言いたげな菊平を視線と手の動きで制し、いつになく穏やかな声で言う。
「確かに、八束の言ってることも、わかる。俺らが法を無視してちゃ意味がない」
「なら」
「でもな、八束。世の中っつーのは、そんなに単純じゃねえのよ。例えば、今回の事件、最初から警察が動いていたとしよう。警察は当然、近所の連中にも聞き込みをするだろうし、大っぴらに神社の中を捜索するだろう」
 それらは、もちろん人の目に付く。今までろくに大きな事件もなかった、平穏な住宅街であれば尚更目立つはずだ。
「そうすると、当然、噂になるわけだ。どこそこの誰それが犯罪に手を染めた、ってな。一度生まれた噂は、尾ひれやら背びれやらをつけて、いつしか根も葉もない化け物になる。それは『償い』とは全く無関係の『見せしめ』であり『重圧』であり、ぶっちゃけ『悪意』でしかない」
 ――見せしめ。重圧。悪意。
 こちらを見つめる無数の視線を思い出し、八束は反射的に両腕で己の身体を抱いていた。
 いつからだろう、それらを黙って受け止めるのが正しいと思いこんでいた。あの時、自分は間違ってしまったのだから、己の愚かさに対する当然の罰であると思っていた。
 しかし、よくよく考えてみれば、確かに南雲の言うとおりだ。それらは決して、当たり前のものではない。法で定められている罰とは全く無関係の、理不尽ともいえる仕打ちでしかないのだ。
 南雲の、人よりも淡い朽葉色の瞳は、どこまでも静かに、けれど不思議な熱を帯びて八束を見下ろしていて。
「わかるか。俺らのやり方は、正義なのかもしれない。だけど、必ずしも、人の心を守ってくれるわけじゃないんだ」
「……っ」
「まあ、そこまで先輩が考えてたかどうかはわからんけどね。でも、少なくとも翔くんの立場について、危惧はしただろうってこと」
 ――南雲は、そこまで考えて、菊平に協力を申し出ていたのだ。
 自分の浅はかさに腹が立つ。困っていた菊平の力になりたいという思いは本当ではあったが、彼の思惑や抱えていた不安のことは、全く考慮に入れていなかったのだ。
 それと同時に、警察という組織の役割についても、考えずにはいられなかった。自分のしていることが間違っているとは思わない。思わないけれど、傷つく存在の可能性を改めて認識してしまった以上、無視できない棘のある塊として腹の底に転がっているような錯覚に陥る。
 南雲は、片方だけ手袋で覆った手を合わせる。
「さて、話はちょっと逸れたけど、菊平先輩が警察に届け出ることはないって城崎さんは思ってた。だから、俺たちが『警察の人間』って言われて焦ったんだ。話が違うってな」
「なるほど! それで、笠居さんに」
「そういうこと。首尾よく河童のミイラを手に入れた城崎さんは、先輩に『黒鯨の髭』を出すよう脅迫するつもりだったんだろう。でも、そこには俺たちがいた。俺らが単なる個人として協力していることを知らない城崎さんは、警察の捜査が入ったと勘違いし、『黒鯨の髭』どころではないと思い込んで証拠の隠滅に走ったわけだ」
 判断としては下の下だが、それだけ城崎は焦っていたのだろう、と南雲は言う。
 本当に警察の手が入ったなら、すぐにでも捜査の手は伸びるに違いない。その時に河童のミイラを手にしていれば、完全に言い逃れができない――と。
 もはや、城崎はぎりぎりと歯ぎしりの音を立てるだけで、言葉も出ない様子だった。
 これで、ほとんどの謎は解けた――と思ったが、八束には一つ、解せない箇所があった。
「しかし、河童のミイラは『黒鯨の髭』とは釣り合わないと聞きました。脅迫は成立しますか?」
 かつて、菊平は言っていた。『黒鯨の髭』とは、この一帯を守る神とも言うべき大妖怪との契約の証であり、おいそれと人に見せられるものではない、と。期間を定めてとはいえ、一般に公開できる河童のミイラとは扱いが根本的に異なるはずなのだ。
 しかし、南雲は特に悩むことも無く、あっさりと答えてみせた。
「するでしょ。翔くんを引き合いに出されれば」
「翔さんを、ですか?」
「翔くん本人は、城崎さんの言う通りに、河童のミイラを盗めばいいと思ってたと思うよ。でも、城崎さんにとって、河童のミイラは単なる口実に過ぎなかったと思うんだ。要は『翔くんが河童のミイラを盗んだ』っていう事実の公表と引き換えに『黒鯨の髭』を得ようとした……、俺はそう思うけどね」
 噂の力の大きさは、先ほど南雲が言及したとおりだ。もし、意図的に城崎が悪意ある噂を広めようとしたならば、おそらく翔の心には大きな傷が残るだろう。
 つまり、実際に天秤に載せられたのは河童のミイラではなく、翔少年であった――。
「……手前、そんなことを考えてやがったのか!」
 低い、怒気を篭めた声。菊平が、拳を握り締め、今にも城崎に殴りかからんとしていた。城崎は城崎で顔を真っ赤にしたまま、尖った顎を逸らす。
「ふん、今まで何一つ気づかなかった馬鹿が何を吠える」
「何を!」
 このままでは暴力沙汰になりかねない、と判断し、八束は菊平と城崎の間に割って入る。菊平が八束の名を非難めいた声音で呼ぶが、構わず城崎の顔を見据える。
「どうして、そんなことを?」
「決まっているだろう、『黒鯨の髭』は遠き日の伝承に語られた、伝説の獣の存在を示している。かつてこの大空を飛んでいたという黒鯨の存在を証明することができれば、私を排斥した愚かな連中を見返すこともできよう!」
 城崎の目は血走り、ぎらぎらとした輝きを帯びている。目の輝きとその口元に浮かぶ獰猛な笑みは、己が見据えている目標を何一つとして疑っていないことの表れだ。
 確かに、城崎にとってその目的は崇高であり、他の何にも代えられないものだったのかもしれない。かつて、怪物ハンターとして得た名声を取り戻すために、必要なものであったのかもしれない。
 ――しかし。
「そんなことのために、あなたは、翔さんを利用したというのですか!?」
「利用? とんでもない。この世界に名を残す研究に協力できたのだ、むしろ感謝してもらいたいものだな」
 ぐるうり、とその顔が翔に向けられる。翔は「ひっ」と怯えて菊平の背中に隠れた。菊平もまた、怒りをあらわにしながらも翔を庇うように手を広げる。
 ただ、既に城崎の目に菊平たちの姿は映っていなかったのかもしれない。恍惚とした表情で、空を仰ぐ。
「私は、こんなところで終わるような人間ではない。科学という名の闇に覆われて隠されてしまった、幻の獣たち。彼らを再発見するという偉業が達成されたその時、私の名は、この世界に記憶されることになるのだ! 素晴らしいことではないか、そうだろう?」
 その声は、一体誰に向けられたものだったのだろう。乾いた笑いを上げながら放たれた言葉に、八束は、反射的に叫び返していた。
「全く! 素晴らしくなんてないですっ!」
 虚空を見据えていた城崎の目が、ひたりと八束に向けられる。その暗さ、澱みに正気の色は見えなかったが、不思議と恐怖は感じなかった。否、八束が「人間」に心から恐怖したことは、今まで一度も無かったのだと思い出す。
 今の八束を支配していたのは、恐怖などではない。ただ、ただ、身の内に燃え盛る怒りの感情だ。
 両の足で石畳を踏み締め、真っ向から城崎に向き合う。
「あなたは間違っています! その目的があなたにとってどれだけ崇高であろうとも、誰かを傷つけ、陥れるようなやり方が正しいわけがありませんっ!」
「今まで私を理解しようとしなかった愚昧な人間のことなど、どうして私が考慮しなければならないのだ? そう、私はただ、かつて受けた仕打ちを返しているだけに過ぎない。当然の報いというやつだ!」
「……っ、あなたって人は……!」
 八束の怒りが限界に達しかけた、その時だった。
「はいはい、ストップストップ」
 ぱんぱん、という軽い音。南雲が手を打ち鳴らした音だと気づいたのは、一拍の後だった。八束は拍子抜けして、つい拳に入っていた力を抜いてしまう。それは菊平も、そして城崎すらも同じだったのだろう、ぽかんと南雲を見つめていた。
 一瞬だけ生まれた妙な静寂の中、南雲は幽鬼のごとき顔からは想像もできない明るい声を上げる。
「悪いけど、俺たちの仕事はここまでっす。先輩には言いましたよね、俺たちはあくまで『犯人を見つける』とこまで協力する、と」
 その言葉の意味は、見つけた後の始末は知ったことではない、ということだ。
 それは、あまりにも無責任に過ぎないか。八束は声を上げようとしたが、それよりも先に南雲の言葉が続いた。
「そして、仮に先輩が城崎さんを殴ろうもんなら、俺は傷害の現行犯として先輩を捕まえなきゃならなくなる。善良な市民としてね」
「……何が言いたい」
 菊平の声は、ほとんど唸りに近いものだった。爆発しそうな感情を、無理やりに押さえ込んでいることがはっきりと伝わる声。それでも、南雲はあくまでのらりくらりとした態度を崩そうとはしないのだ。
「正式に警察として動いてない以上、俺たちには城崎さんをどうこうする権利も義務もないってこと。もちろん、先輩にもっす。立場上、私刑を容認することはできないんすよ」
「だが、こいつはどうなる! 野放しにしろっていうのか?」
「うん、まあ、仕方ないっすね。そんなわけですから、城崎さんも帰っていいっすよ」
 南雲はぴらぴら手を振る。八束が呆気に取られたように、城崎も不可解そうな顔で南雲を見やったが、すぐにステッキで強く石畳を打ちつけ、声を荒げる。
「ふん、言われなくとも帰らせてもらうぞ! 貴様ら覚えておけ、寄ってたかって私を責め立てたことを、必ず後悔させてくれよう!」
 ステッキを振り、城崎は肩を怒らせてその場から去っていった。その背中に食って掛かりそうな菊平の前に、南雲がすっと体を割り込ませる。
 菊平は激しく歯を鳴らしたかと思うと、南雲の襟元に掴みかかった。
「おい、南雲! 手前何やってんだよ! あいつを逃がして何になる、翔のことは……」
「やだなあ、先輩落ち着いてくださいよ」
 襟を掴まれながらも、仏頂面でひらひらと両手を振った南雲は、突然、声を低くして囁いた。
「俺が、何も手を打ってないとお思いで?」
 菊平の動きが、ぴたりと止まった。そして、次の瞬間には全身に入っていた力が抜けて、南雲の襟を掴んでいた手もだらりと落ちた。すっかり気勢を削がれてしまったらしい菊平は、深々と溜息をついて言った。
「……お前、そういや、そういう奴だったな」
「わかっていただけて何よりです」
 南雲はおどけた調子で、やたらと慇懃に一礼する。
 一体南雲は何をしたのだろうか。気になりはしたが、南雲はそれ以上を菊平にも、八束にも語る気はないらしく、大げさに肩を竦めるだけだった。
「ほら、あんなクソジジイを殴ったところで、手が痛くなるだけでしょ。それなら、嫌なことすかっと忘れて気持ちよく過ごした方がいいと思うんすよ、俺」
 南雲の言い分は、いい加減に聞こえるが真理でもある。忘れる。それは人間に与えられた――ただし、八束には欠落している――能力の一つだ。もちろん、意識して忘れるのは簡単なことではないだろう。
 だからこれは、きっと、一種の祈りなのだ。言葉こそ軽いけれど、南雲なりの精一杯の、祈り。理解はされづらい、彼の「優しさ」と言い換えてもいいだろう。
「そうですね。河童は無事戻ってきましたし、翔さんがどうして河童を持っていかなければならなかったのかもわかりました。南雲さんのおっしゃるとおり、我々の役割はこれでおしまいです」
「……ああ、そうだな」
 菊平は、笑おうとしたのだと思う。ただ、あまりにも色々なことがありすぎたからだろうか、その表情は鈍かった。
 それに――。

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