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時計うさぎの不在証明 02:ワンダリング・ウォーターインプ

行方知れずの水棲妖怪

 ――河童が、歩いて、逃げた。
 
 八束結がその言葉の意味を正しく受け止めるまでには、数秒の時を要した。
「そ、そんなこと、ありえるんですか?」
 ぺたり、ぺたりと、耳の奥で足音が聞こえる。湿り気とぬめり気を帯びた、緑がかった褐色の肌を持つ影が、八束の脳内でぐっと首をもたげ――。
「いやー、ありえねーだろ」
 ぼそりと呟く声が頭上から降ってきて、八束の妄想はあっけなく打ち切られた。
 南雲彰。八束の教育係かつ相棒であるその男は、綺麗に剃りあげたスキンヘッドをゆらゆらさせながら、黒縁眼鏡の下の隈の浮いた目で神主の菊平亮介を睨む。八束より頭一つ以上背の高い強面の男に見下ろされ、菊平の表情に怯えに似たものが走った、ような気がした。
 しかし、南雲の薄い唇から放たれるのは、いたって軽く、間延びした声である。
「先輩も、ちょっと落ち着いてくださいって。河童のミイラは歩きませんし、そもそもここに奉納されてるミイラは偽物だって、先輩のお爺さんも言ってたじゃねっすか」
 南雲が先ほどから菊平を「先輩」と呼び、いい加減ながらも普段より丁寧な言葉を使っているところから考えるに、どうも菊平は南雲の先輩――おそらくは学生時代の――であるようだ。南雲の実家が近所らしいことを考えると、幼い頃からこの神社には縁があったのだろう。
 菊平は、南雲を半眼で見上げつつ、がしがしと頭を掻く。
「言われてみりゃ、そりゃそうだよなあ。だが、うーん……」
「ミイラが逃げたと思われるような根拠があるのですか? ご相談いただければ、わたしたちも協力できるかもしれません。財産の保護もまた、警察の重要な役割です」
 八束は身を乗り出すようにして、菊平の顔を覗き込む。すると、何故か菊平はたじろぐように一歩下がって、少しだけ八束から視線を逸らした。
「い、いや、大したことじゃねえしな。わざわざ警察の世話になることもないさ」
 どうも煮え切らない菊平の態度に、八束は眉を顰めずにはいられない。
「しかし河童のミイラといえば、偽物であっても珍しいものですし、奉納されていたということは、神社にとって大切なものでもあると考えます。それに、先ほど神主さんは随分と慌てていらしたようです。大したことがない、というには――」
「八束、先輩が困ってるからその辺にしとけ」
 突然、わしっ、と頭を掴まれる感触に、八束は思わず「ぴゃっ」と変な声を上げてしまう。見上げれば、南雲が大きな手で八束の頭をしっかり押さえ込んでいた。
 そのまま、八束の頭をぐしゃぐしゃ撫でながら、南雲がぼんやりとした調子で言う。
「でも、八束の言うとおりだとは思いますよ、先輩。相談できない理由でもあるんすか」
 菊平は、口をへの字にして黙り込んでいたが、八秒の後に重々しく口を開いた。
「だって、なあ。河童のミイラが逃げたとか、警察に言っても信じてもらえるわけねえだろ。馬鹿にされて終わるだけだ」
 お前らもそうだろう、と言わんばかりの疑いの視線が投げかけられるが、八束はぴんと背筋を伸ばして胸を張る。今こそ、己の出番なのだから。
「心配ご無用です! わたしたち秘策――待盾警察署刑事課神秘対策係は、奇妙奇天烈摩訶不思議、オカルトにまつわる事件の捜査を専門としております。どのような不思議であろうとも、真摯にお話を伺った上での捜査をお約束いたします!」
 こんなこともあろうかと、あらかじめ用意しておいた口上を一気に言い切り、菊平に頷いてみせる。だが、菊平は呆然と八束の顔を眺めた後、かくん、と首を曲げて横の南雲を見上げた。
「……本当に、そんな係あんの?」
「遺憾ながら実在するんすよ」
 南雲は仏頂面のまま、大げさに肩を竦めて言った。
 待盾警察署刑事課神秘対策係、通称「秘策」。
 八束と南雲は、そんなけったいな部署に所属する警察官である。
 一ヶ月前、とある事情により、C県警察本部の刑事部捜査一課から待盾署に転属となった八束は、まず、待盾という都市の奇妙な特徴を思い知らされることになった。
 ここ待盾市は、昔から、ありとあらゆる超常現象が集まる「特異点都市」だというのだ。
 妖怪や幽霊、超能力者に魔法使い。人が「不思議」と呼ぶものは、大概待盾のどこかで見かけられる、とか何とか。説明のつかないものに恐怖を感じる八束にとっては、とことん暮らしづらい土地である。
 しかも、物的、人的被害を伴うオカルト事件も過去から現在に至るまで多々発生しているというのだ。幽霊や妖怪を罪に問えない以上、いくつもの事件が闇へと葬られてきた。
 しかし、「不思議」とは現実に存在し得ないからこその不思議である。オカルト事件も、実際には人の手による犯罪であることがほとんどだ。待盾という土地に遍在するオカルト――「罪に問えない」対象に己の罪を隠し、追及の手から逃れんとする卑劣な犯罪。それがオカルト事件の本質と言ってもいいだろう。
 故に、待盾署には「神秘対策係」が存在する。
 神秘対策係は、オカルトが関わる事件を専門に扱う部署であり、強行犯係や盗犯係といった他の係とは別に、独自の捜査を行うことが許されている。
 ただし、神秘対策係に許されているのは、あくまで「オカルトが人の手によることの証明」までである。その後は、他の係が全面的に解決するのを眺めていることしかできない。
 そんな、極めて微妙な立ち位置にある神秘対策係だが、今回のように「オカルトと思われる事件」に積極的に関わることができるという点は極めて重要だ。
 まさに今の菊平のように、オカルトに見えるが故に他人に相談できず、見過ごされてきた出来事を、一つの「事件」として扱い、解決に導く。それが秘策の最も重要な役割であると、八束は自負している。
 ――とはいえ、まず知名度が低すぎるという点と、存在を知られたところで胡散臭げな目で見られる点に関しては、早急な改善が必要だと思っているが。
「とにかく、わたしと南雲さんは、オカルトに関する事件を取り扱っていますので、いくらでも相談に乗りますよ!」
 どんと胸を叩くと、呆然としていた菊平が、口元の緊張を緩めて苦笑した。
「南雲は、オカルト嫌いだと思ってたんだがなあ」
「嫌いですよ。だからこそわかることも色々あるってことです」
 それに対し、南雲はしれっとした態度で、手首に下げたコンビニ袋から一口サイズのチョコレートを取り出す。そろそろ糖分が足りなくなってきたのだろう。
 南雲は常に甘いものを口に含んでいないと落ち着かないようで、普段から必ず飴やチョコレートを持ち歩いている。ここ数日はチロルチョコの気分らしく、かわいらしい包みのチョコがコンビニ袋の中にぎゅっと詰まっている。スキンヘッドに強面な男が大きな手でチョコの包み紙を剥く光景は、なかなかにシュールである。
 ――それにしても、南雲のオカルト嫌いは、意外とよく知られているらしい。
 八束はオカルト全般を恐ろしいものと認識しているが、南雲はそれとは正反対に、恐怖心が欠落しているとしか思えないくらい肝が据わっている。その一方で、分厚い眼鏡の下から、絶対零度の視線でオカルトと呼ばれる現象を観察するのだ。
 南雲はオカルトを信じようとしない。その姿勢は、見かけに反して柔和な彼らしくもなく頑なで、八束には不思議に思えるのだった。
 ともあれ、菊平は南雲と八束を交互に見て、それから社へと続く石階段を振り返って……、ゆっくりと首を振った。
「でもまあ、まずは自分で探してみるよ。忙しいところ、邪魔しても悪い」
「俺らめっちゃ暇っすよ。だって知名度低いんだもん」
「南雲さん、一言余計です」
 警察官、特に刑事と呼ばれる人種はそうそう暇なものではない、というのが一般認識であり、大概においてそれは正しい。ただ、八束と南雲に一般的な認識は全く通用しないのが現実であった。
 本当に忙しければのんびり散歩もしていないし、河童のミイラに興味を持つこともない。そういうことだ。
「しかし……、本当にお手伝いしなくてよろしいのですか?」
 八束としては、暇であろうがなかろうが、菊平さえ望めば捜査に臨むつもりでいる。歩いて逃げたというミイラの行方も気になるし、それ以前に菊平が困っているのは明らかだ。神秘対策係という役割を抜きにしても助けになりたい。それが偽らざる八束の思いである。
 だが、菊平はどこか冴えない顔つきで、小さく頷くのだ。
「ああ。ありがとな、気使ってくれて」
 そう言われてしまっては、八束も強制はできない。それでも、話を聞いた以上、このまま引き下がっていいのか。悶々とした思考に陥りかけたその時。
「菊平先輩、勝手に見るのはダメ?」
 今まで無言でチロルチョコを咀嚼していた南雲が、朗らかに――ただし、顔に張り付いているのは死人を思わせる強張った仏頂面だ――言った。これには菊平も驚いたのか、目を見開いて南雲を見上げる。
「捜査じゃなくて、勝手に覗いて好き勝手言うくらいは許してくれませんかね。八束は河童に興味あるみたいですし、俺も行方は気になるんすよ」
 言いながら、再び八束の頭をもしゃもしゃ弄る。どうやら、南雲にとって八束の頭は弄るのにちょうどいい位置らしい。八束としてはいい迷惑なのだが。
 菊平は、腕を組んで南雲を探るように見据えていたが、ふと肩の力を抜いて、深く息をついた。
「わかった。お前らなら、何かわかるかもしれんしな」
 言って、菊平は八束たちに背を向けて、石段に向けて歩き出す。八束と南雲は、一瞬お互いの顔を見合わせてから、菊平の後について歩き出す。階段の前についたところで、振り返った菊平は南雲の顎の辺りを見上げた。
「お前、本当にいい奴だよな、南雲」
 言われて、南雲は一瞬面食らったように目を激しく瞬かせたが、すぐに普段どおりの人を睨み殺しそうな目つきに戻って、大げさに肩を竦めてみせる。
「いやあ、そんなことないっすよ。『イイ性格』とはよく言われますけど」
「そっちの方がしっくり来るのは違いねえな」
 南雲の言葉に、苦笑いを浮かべる菊平。確かに、南雲は「いい奴」でなく「イイ性格」だと、八束も常々思っている。それを南雲がわざとやっているらしいのも、彼の「イイ性格」ぶりをよくよく表していた。
 社に向かう階段は急で、八束は足元に気をつけながら一段一段登っていく。そうして、最後の一段を登りきったところで顔を上げると、石畳の先に木造の社が建っていた。大きな建物ではないが、どことなく静謐な雰囲気を漂わせている。
 菊平は、八束と南雲を振り返ると、「ちょっと待ってろ」と言い置いて社の中へと消えていった。残された八束は、手水場や社務所など、見慣れない境内の様子を観察しながら、ふと、虚空を眺める南雲に視線を移す。
「南雲さん」
「何?」
「意外でした」
「何が?」
 南雲は何も考えないまま返事をしているのだろう、その声はいつも以上にふわふわとしている。もしかすると眠いのかもしれない。そんなことを思いながらも、言葉を続ける。
「南雲さんは、こういう事件には関わりたがらないと思っていたので」
 南雲は、オカルトを好まず、己からオカルトが関わる事件を求めて神秘対策係にいるわけでもない。
 それは南雲本人から語られたわけでも、上司から聞いたわけでもなかった。ただ、普段の怠慢ぶりを見るに、好きでこの部署に配属されたわけでないのは確かだと思っている。
 だから意外だったのだ。いつもなら、秘策の仕事を前にしてもソファに寝そべってぬいぐるみと戯れているばかりのこの男が、「河童が歩いて逃げた」などという怪しげな話に積極的に関わろうとしたことが。
 しかし、八束の疑問に対する南雲の答えはいたって単純だった。
「気は進まないけど、先輩が困ってるのは見過ごせないよ」
 この男、基本的にはとことんやる気に欠けているが、時々、妙にお人よしな一面を見せる。特に、目の前で困っている人間を放っておけないところがあって、南雲からそういう言葉を聞くたびに、八束は不思議と心が温かくなるのを感じるのだ。
 そんな八束に南雲が何を思ったのかは、土気色の仏頂面から測り知ることはできない。できないけれど、南雲は「それに」と溜息混じりに言う。
「お前、俺が言わなくても勝手に調べる気だったでしょ」
「うっ」
 見抜かれている。八束が絶句していると、南雲は八束の頭を無造作に叩いた。散々弄られてぐしゃぐしゃになっている頭に、柔らかな感触が伝わってくる。
「ま、お前一人だと不安だしな」
「それ、どういう意味ですかっ!?」
「言葉通りだよ」
 南雲のそっけない返事に、ぷくっと頬を膨らませたところで。
「入っていいぞ」
 と、菊平の声が建物の奥から聞こえてきた。

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