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時計うさぎの不在証明 01:ワンダーランド・オーヴァチュア

九月の雨の日

 雨が、降っていた。
 
 八束結の記憶を手繰るならば、部屋を出る二十四分前に降り始めた雨は、いつしか地面を激しく叩く大雨となっていた。
 小さな体に似合わぬ大きな紺色の傘を傾げ、底の潰れたローファーで、水たまりを避けながら歩く。その跳ねるような足取りは、踊っているようにも見えた。
 しかし、転属初日から雨とはついていない。
 思いながら、ひときわ大きな水たまりを飛び越える。ほんの数日前にこの町に越してきた八束にとって、勤務地に向かうこの道も、見知らぬ道だ。とはいえ、迷子になるという不安はない。地図はしっかり頭の中に入っているし、方向感覚には自信がある。
 それでも、ふと、不安になるのだ。いくらこの雨とはいえ、ここまで人っ子一人見かけなかったこともそう、八束の身を包むのが雨の音だけであるということもそう。
 寒さからではない悪寒が背筋を駆けて、ぶるりと震える。寒いはずはない。いくら大雨とはいえ、九月初頭の空気はまだ真夏の熱を残している。ならばこの悪寒は何か。
 考え始めるとどんどん悪い方へと想像が膨らむのはわかりきっているのだ、八束は頭を振って前を見る。大丈夫、人がいないのは偶然、他に何の気配も感じられないのは、突然の大雨だから。それだけ。それだけなのだ。きっと。
 うねうねとカーブを描く道を辿り、木々に囲まれた細い道に入ったとことで、八束の足はぴたりと止まった。黒目がちの瞳に映っていたのは、道の先に倒れている、何者か。
「……大丈夫ですかっ?」
 ほとんど反射的に、傘を投げ捨てて駆けだしていた。しかし、八束の声を聞いても、倒れている人物はうつぶせになったままぴくりとも動かない。その横には豪快に倒れたバイクの姿もある。
 スーツや靴下が汚れるのも構わずアスファルトの上に膝をつく。フルフェイスのヘルメットに隠された顔は見えず、ヘルメットをはじめ、全身に強く擦ったような傷がある。ただ、かろうじて、呼吸はしているとわかる。肩を叩いてもう一度声をかけてみるも、意識は戻らない。ただ、苦しげな呼吸だけが聞こえている。
 その姿に唇を噛みつつも、腕時計を確認。――八時ちょうど。
 携帯電話を取り出して、一一九番を叩く。通話が繋がると同時に、口を開く。
「もしもし、救急です。場所は待盾市鍋蓋三丁目、林に囲まれた道です。バイクの転倒事故のようで、バイクから投げ出されていた運転手は、呼吸はありますが意識がなく――」
 そこまで一気に説明したところで、八束は口を開いたまま、言葉を失った。
 ついとその人から視線を上げたその時、目に入ったものが、信じられなくて。
 カーブになっている道の先に立ち尽くしていたのは、白い衣を頭の上からまとった人影。
 そして、
 
 ――その人影には、足が、なかった。
 
 
 
 朝から降り始めた雨は、全く止む気配を見せない。
 目には見えない空気の重さに、ただでさえ重たい頭がさらに鈍い痛みを訴える中、南雲彰は黒い傘を肩にかけ、頼りない足取りで野次馬の間をかき分けていく。
 かき分けると言っても無理に人を押し退ける必要などなく、相手が勝手に避けてくれるので楽なものである。その時に投げかけられる意味ありげな視線も、気にしなければどうということはない。
 野次馬の向こう側には、雨合羽を着た警官たちが人垣を作っていて、南雲もまたそのうちの一人、南雲より一回りくらいは若い警官に引き留められる。
「ちょ、ちょっと、こちらは立ち入り禁止ですよ」
 言葉と視線に怯えを滲ませる警官をぼんやりと見下ろし、コードのついた手帳を示す。
「俺、待盾署の南雲っていうんだけど、蓮見ちゃんいる?」
「……へっ?」
 警察手帳と南雲の顔とを交互に見比べて目を白黒させる警官。すると、その後ろから、よく通る女の声が聞こえてくる。
「あっ、その人は通してあげて。ヤクザみたいな面構えだけど、一応、本物の警察官だから」
 こっちですよ、と手を振っているのは、他の警官と同じく合羽姿の女だった。その周りには、南雲も顔を知っている警官が数人、珍妙な顔をしている――おそらくは、笑いを堪えているのだろう。
 南雲は呆然としたままの若い警官の横をすり抜けて、「蓮見ちゃーん」と女――交通課の蓮見皐に手を振ってみせた。
「ヤクザなんて酷いな、こんなに人畜無害でフレンドリーなのに」
「でも、そう見えるって自覚はしてますよね、南雲さん」
「うん」
 しれっと頷く南雲には、蓮見も苦笑するしかないようだった。
「あんまり、うちの新人いじめないでくださいね」
「いじめてるつもりはないんだけど」
 新人らしい若い警官に視線を向けると、緊張なのか恐怖なのか何なのか、びくりと震えて助けを求めるように仲間の警官に話しかける。
「あのっ、あの方は?」
「あー、お前は見たことなかったか。あれが待盾署名物、秘策の南雲さん」
「秘策!? 神秘対策係って、実在したんですか!?」
 ひどいな、と内心思いつつもその評価を否定する気にはなれない。同じ署に所属していても、見かけからして自己主張の塊である南雲を知らない警官は未だ一定数存在するし、南雲の所属を知らない――知っていたとしても実在を疑う者はそれ以上に多い。だから、この警官の反応は決して目新しいものでもなく、南雲にとっては「何度も繰り返したやり取り」の一つに過ぎなかった。
「で、バイク事故だって聞いたけど」
 南雲は蓮見越しに事故現場を見やる。とはいっても、バイクの運転手は既に病院に搬送されており、今は数人の警官が激しい雨の中、現場検証を行っている。
「はい。ただ、この雨だから、検証には時間がかかりそうで」
「そりゃ大変。俺を呼んだのは、猫の手でも借りたいってとこ?」
 猫よりも使えないと思うけど、と仏頂面で嘯く南雲に対し、蓮見は「いえいえ」と首を横に振る。
「手伝ってもらいたい、というのは確かに間違いじゃないんですけど。ちょっと、こちらへ来ていただけますか?」
 蓮見に手招きされて、南雲はひょこひょこ後ろをついていく。他の警官たちの好奇の視線は、わかっていながら無視を決め込む。いちいち構っていたら、時間がもったいない。
 蓮見が向かったのは、路肩に停まっていた警察車両であった。「見てください」と言われるがままに、窓越しに後部座席を覗きこむ。窓が濡れているのと、南雲自身の視力の低さからすぐには判別できなかったが、よくよく見てみれば……。
「女の子?」
 そう、一人の少女がそこにいた。
 座席に横たえられているその姿は、よく出来た人形のようだ。
 しっとりと濡れた黒髪は、腰の辺りまで伸びている。瞼を閉じていても、その睫毛の長さが目立つ。綺麗に切りそろえられた前髪の間から覗く眉は太く、意志の強さを感じさせる。今時珍しい、古風な印象の美少女である。
 少女の服装は、少しサイズが大きいのではないかと思われるブラウスに黒のスカート姿。その上で全身ずぶ濡れらしく、ブラウスから下着が透けて見える。とはいえ、子供の下着を見たところで興奮する南雲でもなく、蓮見に視線で説明を求める。
 蓮見は、こほんと軽く咳払いをしてから、口を開いた。
「本日明け方、ここでバイクが横転し、投げ出された運転手が重傷を負いました。今もまだ、意識は戻っていないと聞いています」
「で、この子が、事故と何の関係があるの?」
「わかりません」
「……は?」
「一一九番通報があったのが、午前八時前後。通報は女性の声だったそうです。しかし、その電話は途中で、その女性の悲鳴で途絶えたという報告が入っています。救急からの報告を受けて我々が駆けつけた時には、バイクの運転手と共に、彼女が倒れていたんです」
 通報の主がこの少女であろう、というのが蓮見の見解であった。妥当な線だろう、と南雲も思う。
「この子に怪我はない?」
「はい。単に気絶しているだけのようで、救急隊員からも特に問題なしと言われています。ただ、事故との関係がわからないため、目が覚めるまでは我々で預かることになりまして」
 ふうん、と南雲は改めてしげしげと少女を観察する。窓越しでも、薄い胸が上下していることは、わかる。蓮見の言うとおり、命に別状は無さそうだ。あどけない顔立ちや、めりはりに欠ける体つきから判断するに、中学生くらいだろうか。それにしては妙に大人びた服装をしているけれど、と考えながら蓮見に問う。
「身元とかは、わからないの?」
「わかってますよ。そうでなければ、南雲さんをわざわざ現場に呼んだりしませんって」
「……どういうこと?」
 思わず振り返り、蓮見に問う。この少女に見覚えはない。普段は起きているんだか寝ているんだか怪しい南雲だが、本来記憶力はそう悪い方ではないと自負している。それに、この少女の顔は、かなり特徴的だ。もし一度でも見ていれば、印象に残っていてもおかしくないが……。
 蓮見は軽く肩を竦めて、苦笑交じりに言う。
「所持品から名前はすぐにわかりました。彼女は八束結さんというのですが、綿貫係長から名前くらいは聞いてますよね?」
 やつづか、ゆい。
 あまり聞かない苗字だなあ、という印象は、この場においても有効だった。つまり、南雲はこの少女の名前を知っていた。
 知っては、いたけれど。
「……うちの、新入り?」
「はい」
 八束結巡査。本日付で待盾署に配属される、という話は聞いていた。そして、南雲の直属の「後輩」になるということも。南雲の所属する係に新人が入るということ自体耳を疑ってはいたが、それにしても。
「いやまさか。どう見ても中学生でしょこの子」
「身分証によると一九八三年生まれだそうです。二十二歳ですよ二十二歳」
 いやいやないない、と頭を振る南雲だったが、蓮見がこのような場で下らない冗談を言うタイプでないことは、南雲もよくよくわかっている。
 しばし現実から逃避しようと色々と想像の翼を広げてはみたが、結局、窓越しの眠り姫を眺めて。
「……マジかあ……」
 そう、呟くしかなかったのであった。
「マジです。そんなわけで、南雲さんには、彼女を一旦秘策に連れて帰ってほしいんです」
「蓮見ちゃん、俺が車運転できないの知ってるじゃん」
「お姫様抱っこという手があるじゃないですか」
「やだよ。腕が疲れるし、それ以前に不審者扱いでまた捕まるって」
「……『また』って、捕まったことあるんですか?」
「決定的に捕まったことはないけど、職務質問はのべ十回くらい」
 一瞬、気まずい沈黙が流れた。それでも、すぐに気を取り直したらしい蓮見が、溜息混じりに言う。
「顔、早く覚えてもらえるといいですね」
「ね。で、本当にお姫様抱っこで署まで帰れって?」
「まさか。運転手をつけますのでご心配なく。でも、そこから先はお姫様抱っこをお勧めします」
 どうして、そんなにお姫様抱っこ推しなのか。お姫様抱っこはそこまで乙女心を掻き立てるものなのか。それとも、「南雲が人形のような美少女をお姫様抱っこしている」という愉快な図を期待しているのか。どうも、後者のような気がしてならない。蓮見は実際にその現場を見ることはないというのに、物好きなものである。
 ともあれ、改めて車の中の「お姫様」を確認した南雲は、そっとため息をつき、骨と皮だけの己の腕を撫ぜて呟く。
「……もうちょっと筋トレしとけばよかったな」
「意外と乗り気じゃないですか」
 蓮見の呆れ混じりのツッコミは、聞かなかったことにした。

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