シアワセモノマニア物語ゆめうつつ演義 > 安眠ぱらのいあ

 

>安眠ぱらのいあ
 
 
  羊が一匹、羊が二匹。
  真っ白な羊が、空想の柵を飛んでいく。どこから来て、どこへ去っていくのだろう。
  羊が三匹、羊が四匹。羊が五匹、六匹、七匹……。
  ラジオのスイッチは切ったはずなのに、ノイズ交じりの陽気な音楽が聞こえてくる。鈴の音、聞き飽きたメロディ・ライン。メリークリスマス、メリークリスマス。いやあなんて幸せなんだろう死ねばいいのに。
  頭の上まで布団を持ち上げて、何とか音を遮断しようとするのに、羽毛布団も毛布もあまりに非力で、耳に響く陽気な音色はさらに音を増すばかり。
  扉は閉めて、雨戸も閉めて、両目だってとっくに潰したはずなのに。
  目の奥の奥の方で、きらきら輝くイルミネーションと、手を繋いではしゃぐ家族連れ、それに肩を組むカップルどもの姿が見える。
  違う、そうだ、羊のことを考えるんだ。
  羊が、羊が……忘れちまったじゃないか。また、最初から数えなおしだ。
  羊が一匹、羊が二匹―。
 
 
    *   *   *
 
 
  羊が九十九匹、羊が……。
  ……あれ?
  いつまで経っても、百匹目の羊が、やってこない。
  空想の牧草を踏んで、羊がやってくるはずの方角を見て……思わず、息を飲む。
  のどかな風景にはあまりにも場違いな、黄色いライオンが。俺の大切な羊を、食い殺すところだった。
  羊の首から噴き出したどす黒い血が、明るい緑色の牧草を嫌な斑模様に染め上げている。
  おいおい勘弁してくれよ、これは俺の想像の世界じゃないか。俺が思いもしないような出来事なんて、あってはならない。そんな無粋なことをする奴は、そうだ、俺の大嫌いな「人でなし」の連中くらいだ。
  人でなし。
  本当はどう呼ぶべきなのか、俺は知らない。知りたくもない。俺の目にしか映らない、俺の妄想なのかそうでないのかもわからない連中。俺の人生をめちゃくちゃにした、人ではないなにか。
  その人でなしのライオンが、俺の世界を踏みにじっている。お前らのせいで何もかもが狂っちまったのに、その上更に俺の頭の中にまで入り込んでくるのか。ふざけるな!
「おい、手前、何してくれやがる!」
  声の出し方なんて、とうに忘れていて。それが上手く言葉になったのかも、わからない。だが、ライオンには届いたのか、ぐるうりと顔をこちらに向けてきた。ライオンだ。色はやけに派手だが、まごうことなきライオンだ。
「何してる、ってのはこっちの台詞だよ」
  だが、聞こえてきたのは、厳つい顔に似合わぬガキみたいな声だった。
「アンタのせいで、あちこちに『扉』が開いちゃってるんだ。このままじゃ、大変なことになるよ。知らないの?」
  さっぱり、言っている意味がわからない。
  わかろうとする気も起きない。
  人でなしの言葉に耳を貸したところで、いいことはないってことくらい、わかりきってんじゃねえか。
「せめて、羊だけでもあっちに送り返してよ、あいつら、無差別に人を眠らせて……」
  耳を塞いで、目を閉じて。意識しないと、潰したはずの目は人でなしの姿を映しこんでしまうから。羊が一匹、羊が二匹。そう、羊のことだけ考えていれば、他のことは一旦頭から追い出せる。
  さあ、羊を数えるんだ。三匹、四匹。
「う、うわわっ」
  ライオンの高い声が、聞こえた気がした。思わずそっちに意識を戻してしまうと、大きな角を生やした俺の大事な羊たちが、ライオンに向かって飛び掛っていくところだった。黄色いライオンは鋭い牙で何とか羊を噛み殺そうと、悪戦苦闘している。
  草食動物だって、ライオンを突き殺すことはできるって、そういえば、ガキの頃にテレビで見たことがあるな。
  はは、いい気味だ。
「ダンちゃん、深入りはダメ! こっちへ!」
  突然、頭上から、声が降ってきた。
  顔を上げると、俺の想像が作り出した青い空に、裂け目が生まれていて。そこから、何かが顔を出していた。
  女だ。茶色い髪をふわふわと波立たせて、空の隙間から手を振ってライオンを呼んでいる。普通にしてりゃあ柔らかいのだろう目元が、きゅっと吊りあがって、俺を睨んでいる。何故だろう、胸が苦しい。
  ライオンは、軽々と空を駆け上がって、女が顔をのぞかせている空の隙間に大きな身体をねじ込んだ。そのまま、女とライオンの姿は、隙間の向こうに消えて……隙間は、何事も無かったかのように閉じてしまった。
  けれど、女の、俺を見つめる視線だけは、残像のように頭の奥に焼きついている。
  目を潰したはずなのに、何でこんなに鮮やかに記憶されてしまうんだ。ここが俺の空想だからか、それとも。
  ……やめよう。考えたところで、意味がない。嵐は過ぎ去った、俺は眠らなければならない。眠るのに、他の何もかもは余計なものでしかない。
  ああ、でも羊がいなくなってしまった。
  これでは眠れないじゃないか。羊を呼び戻さないと。大丈夫、もう怖いライオンはいない、戻ってくるんだ、夢の羊。俺を眠りに導いてくれる、もこもこの、かわいい羊。
  さあもう一度、最初から数えなおしだ。
  羊が一匹、羊が二匹―。
 
 
    *   *   *
 
 
  …………。
  何だってんだ、羊ども。
  いつまで経っても羊がやってこないと思ったら、柵の前に一匹の犬がいた。
  警察がつれてるみたいな、細い身体に鋭い牙の犬。ドーベルマンとかいうんだっけか、でもこいつは俺の知ってるドーベルマンと違って真っ黒だ。まるで、影みたいに。
  羊はすっかり怯えて、俺の前に現れてくれない。この前、ライオンに噛み殺されたのが、そんなに恐ろしかったのだろうか。永遠に眠らせてくれるなら、ライオンの前にだって躍り出てやってもよかったのだけど。ただし、痛いのは御免こうむりたい。
  そんなことを思っていると、犬が、口も開かずに喋りかけてきた。
「やあ、今回もダメみたいだな」
「……何がだ?」
「もう少し、不確定要素がないと、君を引きずり出すのは難しそうだ」
  人の話を全く聞いていない上に、まるで、俺のことを知ってるような口ぶりだ。
  見たことがある気もするし、ない気もする。人でなしの顔なんて、覚えていたくもないから、忘れたことにしたのかもしれない。
  黒い犬は、ぺろりと舌で口の周りを舐めて―その口の中も、舌も、真っ黒だった―唯一、光って見える赤い目で俺を睨んだ。赤、といえば熱や炎をイメージしたくなるものだが、こいつの目は、あまりにも冷たい。俺を見下して責め立てる、弾劾の色。
  一体俺が何をしたっていうんだ、俺はただ寝ているだけだ。寝ようとしているだけだ。部屋から出てもいなければ、誰に迷惑をかけているわけでもない。いや、かけているのかもしれないが……違う、それは、考えてはならんことだ。
  俺はただ、息をしているだけじゃねえか。息をすることくらい、許してくれ。頼むから許してくれよ。
  誰に笑われることなく、指さされることなく、心乱されることもなく。静かな眠りにつければいい。俺の願いはそれだけだってのに、どうして誰も彼もが俺の邪魔をしに来るんだ。
  邪魔だ。
  俺の前から去れ。
  俺の頭の中からいなくなれ!
  頭の中は、俺だけのものだ。そこに入り込んでくるような人でなしなんか、消えてしまえばいい。ぐちゃぐちゃに潰れて、影も残さずに!
  ぐしゃり、と。実際に、俺のイメージの中で、黒い犬は潰れた。
  牧草の上に飛び散った黒い犬だったものは、すぐに霧のように消え去った。これで、もう、煩い声は聞こえない……と、思ったのに。
「まあいい、少しだけ変化があったことだけわかれば。可能性が潰えていないとわかれば、それで」
  いつの間にか、柵の上に現れていた黒い犬は、不愉快な声を立てる。ノイズ交じりのラジオのような、聞き取りづらいのに、やけに耳に障る声で。
「さよなら、歪んだ夢見人。次の世界では何かが変わることを祈っているよ」
  意味のわからない言葉と共に、今度こそ黒い犬は完全に消え去った。残されたのは、真ん中に白い柵のある、牧草の広がる野原だけ。俺が生み出した、安眠のための世界、だけ。
  呼び寄せないと。羊。俺は眠らないといけない。
  羊を数えないと。俺は……俺は。
 
 
    *   *   *
 
 
  羊は、なかなかやってこない。
  その間にも、人の騒ぎ声やイルミネーションはどんどん俺の意識を侵食する。果てには、とうに味も忘れた、焼いた鶏肉の匂いまで漂ってきやがった。
  何だっていうんだ、誰も彼もが俺の眠りを邪魔しようとする。ライオンも、犬も、辺りに満ちているクリスマスの気配も、どうして俺の安眠を妨害するんだ。俺は何も悪くないってのに。
  落ち着け、俺には何も見えない、何も聞こえない。大丈夫、大丈夫だ。深呼吸をして、もう一度最初からやり直すんだ。
  羊が……。
  ああ、羊が、何だっていうのだろう。
  眠りに導いてくれるなら何だっていいのに、眠れないから羊を数えるしかない。そう、眠れなくなって何日目かを数えるくらいなら、羊を数える方がまだ有意義だ。
  きっと、有意義だ。
  そう思わなければ、俺は、正気でいられない。正気。俺は正気だ。どこまでも正気だ。
  そう、そうだ、羊、何匹目だったっけ。
  まあいいや、いっぱい。いっぱいだな。羊がいっぱい。柵を跳び越せない羊は大渋滞、めえめえめえめえ大合唱。その鳴き声で、俺の頭の中の何もかもを、追い払っちゃあくれないか。
  無理だ。
  羊がこっちを見てる。四角い目でこっちを見てる。恨めしそうにこっちを見てる。何匹も仲間を殺されて、それでも終わりの見えない繰り返しに厭きた羊が、じっと、じっと、こっちを見てる。
  だから、俺が何をしたっていうんだよ。俺はただ眠りたいだけなんだ。
  眠りたいのに、眠れない。
  どうやったって、眠れないんだ。
  せめて、この騒音とちかちか閃く明かりだけでも消えてくれれば。鈴の音も、笑いあう人の声も、煩わしいだけのイルミネーションも、何もかも、何もかも。
 
 
  そう……何もかも。
 
  次に目を開けたら、全部が綺麗さっぱり、消え去ってしまえばいいのに。

 

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