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>日記
 
 
  夜の闇に、雨の音がさらさらと響く。
  机の上では、硝子に閉じこめられた炎がゆらゆらと揺れて、柔らかな光と濃い影を生み出していた。最初は暗すぎると感じたが、数年この屋敷で夜を過ごしていれば、自然と闇の深さにも慣れていく。
  愛用の万年筆を置いて、大きく伸びをして。そこで、ふと、襖がほんの少しだけ開いていたことに気付く。
「まだ起きてたのか、リッカ」
  襖の隙間から顔を覗かせたリッカは、ぽそりとささやいた。
「……眠れなくて」
「そうか。そんなところに突っ立ってないで、入ればいい」
「うん」
  音もなく襖を開いて、リッカが横に座る。淡い薔薇の香りを漂わせて。
「シロウは、こんな時間まで何を書いていたの?」
  歪神の記録か、という問いに志郎はかぶりを振る。
「日記を、つけていたんだ」
  ―にっき。
  リッカの唇が、志郎の言葉を鸚鵡返しにする。
  もしかすると、リッカにはわからなかったのかもしれない。リッカの声には、そんなあやふやな感覚が滲んでいた。
  仮に「日記」という言葉の意味や目的はわかっていたとしても、そこに、価値を見いだせないこともある。特に、人一倍優れた記憶力を持つリッカには、「記録する」という行為自体がナンセンスと感じられるかもしれない。
  家主が、そうであったように。
  リッカは、身を乗り出して志郎の手元を覗き込む。
「どんなことを、書いていたの?」
「今日の天気、体の具合や気分、仕事の進み具合、気になった出来事……まあ、とにかく色々だな」
「そんなに細かく書くのは、面倒じゃない?」
「そういえば、考えたことなかったな。日課だから。単純に、記録するのが好きだということもあるし」
  閉じた日記の背をなぞる。鍵のついた革張りの日記は、言動に似合わず律儀な家主から、毎年決まった日に送られてくる。誕生日おめでとう、という言葉と一緒に。
  だが、志郎は、その日が本当に自分の誕生日かどうかも、知らないままでいる。
  それを自覚したところで、ふと浮かんだ思いは、自然と唇からこぼれ落ちていた。
「ああ……もう一度忘れた時のため、って意識はしてるかもな」
「もう一度?」
「そうか、これは話してなかったか」
  目を上げれば、白い肌に影を落としたリッカが、海色の瞳でじっとこちらを見つめていた。だから志郎は、そう大した話ではないのだけれど、と前置きをして、今までも何度も繰り返してきた言葉を放つ。
「僕には、ここ数年以前の記憶がない」
「え……」
「ある歪神との契約の代償に、持っていかれてね。以来、自分の名前も、どこで何をしてきたかも、思い出せないままでいる」
  リッカは、言葉を失ったようだった。それもそうだろう、リッカは「忘れる」ことを知らない。記憶が抜け落ちている状態を、想像することもできないに違いない。
「記憶がないと、困らない?」
「言葉や知識までは奪われなかったから、君が思うほどではないだろうな。ここで暮らす上では何一つ問題にはならない」
  リッカは、正座した膝の上で指を組み、唇を引き結んで言葉に耳を傾けている。志郎に対してどんな言葉をかけるべきか、迷っているようにも、見えた。
  そんなリッカの不安を和らげるように、志郎は意識して笑みを浮かべる。
「そんなに深く気にしないでくれ。僕にとっては、今の僕だけが『僕』だからさ。過去の僕が何者であろうと、関係のない話だ」
「自分のことがわからない、っていうのは……怖くないのかな」
「怖い、か。普段、意識はしないが」
  けれど、心の片隅では、確かに恐れを感じてもいた。
  そうでなければ、こうまで「記録」を残すことに固執する理由もないのではないか。そう、己に言い聞かせてみる。
  それは、消えることのない記憶の積み重ねで己を形作るリッカとは正反対だが、ある意味では同じ根を持っているのかもしれない。
  だからこそ、日々、記録をする。自分のこと、自分を取り巻く全てのこと。そうすることで、自分の形を確かめているのかも、しれない。
「失ってしまったものを、思うことはある?」
「当然、何を失ったのかを考えることは、ある。あるけど、それが『ない』のが今の僕には当たり前だから、何となく、空っぽな感じはするけれど……それだけだ」
「悲しくならない?」
「悲しく思うだけの理由も、忘れてる」
「そっか」
  それだけを言って、リッカは日記に手を伸ばした。鍵はかけていなかったけれど、中を見られることを恐れる理由もなかった。中に書いてあるのは事実だけで、そう恥ずかしいものでもなかったから。
  けれど、リッカは、中を見ることはしなかった。
  両の手で日記を取って、ランプの明かりに翳して。革の表紙に浮かぶ精緻な細工を確かめて、それから、一言だけ言った。
「重たいね」
「そうかもな」

 

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