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不思議の国の紫苑 アステエルの御伽話

浦島太郎

浦島太郎【うらしまたろう】
 漁師の浦島太郎が助けた亀に連れられ、海の底の竜宮城で歓待を受ける。数日後に玉手箱を携えて地上に戻ると、そこでは数百年の月日が経っていて、という御伽話。
 似たような話に「リップ・ヴァン・ウィンクル」やケルト伝承の妖精郷ティル・ナ・ノーグにまつわる話などがある。
 これらの物語に語られている「異界」と「時間」の概念はなかなかに興味深い。楽園にも、時の長さを歪められた島があるが……と、これはまだ語るべきではなかったかな。
 
 
 
 目を、開ける。
 目に映る光景はいつもと変わらない、歪んで見える殺風景な部屋。そして、そこと俺とを隔てる、分厚い硝子。
 俺は奇妙な液体で満たされた硝子管の中に漬け込まれている(それを認識したのも最近のことだったが)わけで、何処か膜のかかったような意識を抱えて、自分と世界を隔てる硝子に触れることしか出来ない。
 ここから出せよ、と喚いたこともあった。不思議と呼吸は出来ているみたいだし、声は出せないまでも硝子管の外に意志を伝えることは出来る、っぽい。目を覚ましてから見たことあるのがあの女だけで、あの女がわかってるような顔をするから、多分、そうなんだろう。
 それでも俺は今もなお、この硝子管の中に浮かんでいる。
 あの女が俺をここから出そうとしないからだ。
 見覚えない、けれどとにかく憎たらしい顔をした女。俺を見上げる紫の目には、俺を哀れむような、同情するような、そんな感情が浮かんでいて酷く不快だ。服一つ身に着けてない状態で女にまじまじ見られてるっていう羞恥心を差し引いたとしても、だ。
 だから俺は今日も、ホルマリン漬けの蛙のような姿で、あの女を待つ。扉を開けてやってきた女は、硝子管の中の俺を見て、大嫌いな顔でにっこり笑った。
『おはよう』
『出せこら』
『今日はよく晴れているわ。珍しいわよ、この辺ではね』
 女は俺の訴えを華麗に無視して言葉を続ける。いつもそうだ、こいつは人の話を全然聞こうとしない。
『その珍しい空ってやつを拝んでみたいもんだがな』
『ええ、とても綺麗な空よ。是非見て欲しいわ』
 この通り、俺の声が聞こえてないってことはないのだが……
『なら出せよ』
『それと、久しぶりに竜を見たわ。神聖国の竜が来るのは珍しいんだけど』
『……聞けよ、頼むから』
 絶対に、俺をここから出せ、という言葉に対してはしらを切り続ける。とにかくむかつく女である。
 それにしても、神聖国に、竜、なあ。そもそも古臭い民族衣装みたいな服着て、変な飾りをじゃらじゃらさせたイカレた雰囲気の女ではあるが、案外完全に頭の中がおかしくなっちまってるんじゃなかろうか。
 だって、竜なんて架空の生物、いるはずがねえんだから――
 
   *  *  *
 
 ある日、女は血まみれの姿でこの部屋にやってきた。歩いているのも奇跡のような、酷い怪我だった。見ているこちらが吐き気を催すが何とか無理やりに飲み込んで、女に向かって言葉を投げかける。
『……どうしたんだよ、その格好』
『ちょっとね』
 女は痛みを感じていないのか、あっさりと答えて壁を背に座り込んだ。そして、懐から不気味に輝く緑色の液体が入った小瓶を取り出し、蓋を開けて傷口に振りかける。液体はすぐに気化してしまうが、女が傷口に奇妙な形の手を当てて何かを呟いた瞬間に、みるみるうちに傷口が塞がり始める。
 俺は唖然としてその光景を見つめていた。こういう光景を、今までに見たことが無かったわけじゃない。だが、そんなことできる奴がほいほいいるはずがない。
『何だよそれ、魔法みたいじゃねえか』
『魔法よ』
 女はさらりと言った。
 呆然とする俺には構わず、自分の血で銀色の髪が汚れるのも構わず、女は体を横にして頭をことんと床の上に落とした。
『魔法で傷は塞げるけど、流した血は戻ってこないの。だから、少し寝る』
 俺の言葉を待つこともせず、女は目を閉じて寝息を立て始めた。だから、俺は呆然と、あどけない顔で眠る血まみれの女を見下ろすことしか出来なかった。
 
   *  *  *
 
 あの女と過ごしているうちに、段々わかってきた。
 ここは俺もよく知ってる塔だ。ただ、窓が無いからよくわからないのだが、あの女の話によると、ほとんどは地面に埋まっちまってるらしい。天変地異、と曖昧な言い方をしてたけど……要するに、何かやらかしたんだろうな。かつてここにいた連中か、ここにいた連中に囚われた、俺みたいな誰かが。
 その結果世界は一変し、『マナ』という不可思議なエネルギーがこの国を満たし、マナを変換することであらゆる現象を起こす『魔法』という技術が広まった。今では、誰もが魔法を使うようになったと女は当たり前のように言っていた。俺が架空の生物と思い込んでいた竜も、実際に存在するのだという。
 そして、あの女はどうもここに暮らしているらしい。もしかすると、連中の生き残りだろうか。それにしてはものを知らなすぎるようにも思えるが。
 何しろ、俺が何で話ができるかとか、何も食わなくても生きてられるんだとか聞いてみれば「それは専門じゃないからわからない」だぜ? ありえねえっての。
 ただ、あの女はろくな奴じゃねえ、それだけはわかる。
 致命傷に近い傷を負ってやってきたり、逆に綺麗な銀髪が赤黒く染まるほどに返り血を浴びていたり。正直、奴が普段何をしているかは、知りたくも無い。
 早く、ここから出して欲しい。このままでは、俺まで頭がおかしくなりそうだ。
 ただ、出してもらったところで……何をすればいいのかは、わからない。
 きっと、俺を待ってる人はもう、この世の何処にもいないだろうから。あの女が言ったわけじゃねえが、そのくらいは何となくわかっちまうもんだよな。
 ……ああ畜生、悔しいよ。
 何が悔しいって、その事実にもはや怒ることも、悲しむことも出来ねえってことが。何もかも過ぎ去っちまったって、振り返ることしか出来ねえ俺自身が、だよ!
 
   *  *  *
 
『寂しくない?』
 ある日、女はそんなことを聞いてきた。かつての塔や町に関する他愛ない話をしていた中で、唐突に投げかけられた問いに俺は目を白黒させた。女は普段とは何も変わらない、掴み所のない憎たらしい笑顔を浮かべて俺を見上げている。
 ――寂しくない?
 それは、あまりにも残酷な問いかけだ。
 答えたところで何が変わるってんだよ。それに、この女に対して答えてやる義理なんてねえ。そう、あるはず無いんだが……どうしても胸に開いてしまった空白に耐え切れなくて、気づけば、女の問いに答えていた。
『寂しくないはず、ねえだろ』
 女は『そう』とだけ言って、話を切り上げた。いつもよりも早く俺に背を向けて、扉の方に向かっていく。その足取りが、弱々しく見えたのは俺の気のせいか、否か。そんなことを思っていた矢先に、背を向けたままの女が言った。
 ――ごめんなさい。
 驚いた。女の言葉にも吃驚したが、何よりも……女の声が、震えていたから。
 けれど、次の日の女はいつも通りの女で、結局、何を思ってあんなことを言ったのかを聞くことは、出来なかった。
 
   *  *  *
 
 変わりばえしない風景と、常にうつらうつらしているこの意識では、上手く日数を数えることも出来ない。話をする相手があの女だけなのだから尚更だ。
 けれど、流石に、このくらいは理解できる。
 あの女は、俺が目を覚ましたその日から、年を取っていない。
 いや……きっと俺が目覚める、ずっと、ずっと前から。
 ある日『不老不死って奴か』と問うたら、女は笑って頷いた。その表情が妙に無邪気でぞっとさせられた。今も思い出すと鳥肌が立つ。
 だが、同時に気になったことがある。
 鏡があるわけじゃねえから、俺は今の自分がどんな顔をしているのかはわからない。ただ、日々老いているわけでもなさそうだ、ということだけは感覚的にわかる。果たして、俺もあの女と同じように老いることも死ぬことも出来ないのだろうか。
 そう問うてみると、女は首を横に振った。
『いいえ、あなたは不老でも、不死でもない』
 ただ、今という時間から取り残されているだけ。
 言って女は悲しそうに笑った。
 俺はそれ以上のことは聞かなかった。『ここから出せ』と訴えることも止めた。
 この女に訴える意味が無いことに、気づいたから。
 それで俺がどうすべきかは、まだわからなかった。わからない、フリをしていた。
 
   *  *  *
 
『最近、出せって言わないのね』
 ある日、女は初めてそのことに言及した。俺は少しだけ躊躇ってから、女から視線を外して答えた。
『出られるって、わかっちまったからな』
『ええ、望みさえすれば、あなたはすぐにでもそこから出られる』
 女は淡々と言葉を紡ぎながら、俺が入っている硝子管に蜥蜴のような手をつけた。
 そう、俺は望みさえすればいつでもここから出られたのだ。自分と世界を隔てるものを切り裂いて、外へ。
『ただし、外にはあなたを守るものは何も無い。止まった時も動き出し、あなたはただの人として楽園を生きていくことになる……まあ、それが普通よね』
 要するに、私だけが普通じゃないのよ。
 そう言った女は笑ってみせたけれど、酷く鈍い顔で。
 もしかして……こいつ。
『寂しかったのか?』
 俺の問いに、女は一瞬ぎょっとしたように紫の目を見開いたが、すぐに苦笑した。
『ええ、寂しかったわ。独り取り残されて、あの頃を知ってる人もいなくなってしまった。だから、あの頃を知ってるあなたとお話をしている時は楽しかったわ。ただ、私のわがままにあなたを巻き込むのはお門違いよね』
 俺は、この女を知らない。
 知らないけれど、硝子管の中でウラシマ状態に陥ってた俺と違って、きっと、俺たちが生きてた時代から、この時代……今がいつなのかはわからないが……まで生き続けてたのだ。どういう事情かは知らないが、それが辛くないはずがない、まともな人間じゃやってられないはずだ。
 仮にそれを想像しろと言われたところで、想像も出来ないくらいなのだから。
『あなたは、あなたの好きに生きてちょうだいな。それが、今の私の願いよ』
 一体、この女に何があったのか。どのような心変わりがあったのか。それは俺にはわからない。ただ一つ確かなのは、もう、この女に俺を縛る気がないということ。あったとしても、それを俺に強要することを止めたのだ。
 いや、元々強要はされていなかったのか。俺がもっと早く自分の力で出られることに気づいていても、女は同じことを言ったかもしれない。だが俺が気づいていない間は、その事実に甘えて俺をこの場に留めておくつもりだったの、だろう。
 硝子の壁にひたりと触れて、女を真っ直ぐに見据える。
 この壁を越えれば、俺は自由になるのだ。俺を待ってはいない、新しい世界がそこにある。その世界に生き続けている女は、何処かで見たような酷く憎たらしい、しかし穏やかな表情でそこにいた。
 むかつく女だ。だが……恨むことは出来ない。絶対に。
『なあ』
 俺は、心の中に湧き上がる感情の正体も知らないままに、問いを投げかける。
『アンタの名前。まだ、聞いてなかった』
 女はふわりと微笑んだ。鮮やかな色の花が咲くように。
『アリス・ルナイト。それ以外の呼ばれ方は無いわ』
 今はね、と女、アリスは付け加えてくつくつ笑った。
 ――ああ、畜生!
 俺も額に手を当てて、笑った。久しぶりに息が苦しくなるほど笑った気がした。
 悔しいけれど、俺は、どうやらこいつには一生勝てないらしい。アリス・ルナイト。なるほど、それがお前の名前か。今、この瞬間での。
 ひとしきり笑って、それから呼吸を整えて。
 
 俺は、

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