シアワセモノマニア物語不思議の国の紫苑 > 白雪姫

不思議の国の紫苑 コンバラリアの行方

白雪姫

白雪姫【Snow White】
 美貌の姫、白雪姫は、その美貌を羨んだ王妃に殺されかかるが、森に逃れ、七人の小人に助けられる。その後、白雪姫の生存を知った王妃の企みにより、白雪姫は毒林檎をかじって息絶えるも、通りがかった王子の手で息を吹き返し、結ばれる。
 それにしても、毎回手を変えてきたとはいえ、三度も殺されかかる白雪姫に、学習能力は備わっていないのだろうか。これでは、王子の元に嫁いだところで、ろくな未来図は期待できないが、そんな風に考えるのは、流石に穿ちすぎだろうか?
 
 
 
 アリス・ルナイトは、むせかえるような死の臭いに満ちた城の奥に、一歩、また一歩と、ゆったりとした足取りで歩いてゆく。元は赤かったのであろう絨毯は、あちらこちらに転がっている肉塊から染み出した液体で黒く染まっていた。
 ユーリス神聖国、聖王城。使徒エルヴィーネの末裔を王として、世界の礎である世界樹を守り続けてきた国は、今、まさに滅びようとしていた。
 ユーリス神聖国と、神聖国が守る世界樹を手にすることは、楽園そのものを握ることに等しい。今までは、周囲の国々がお互いに牽制し合っていて、ユーリス国に直接戦火が及ぶことは無かった。ユーリス国民は、世界樹の根本で、女神の与える恵みを享受し、穏やかに流れる時を過ごしていたのだ。
 そして、長らく平穏の中にあったがために、その平穏がどこまでも危ういものであることに、国民の誰も、気づいていなかった。
 そう、長き均衡が崩れるのは、一瞬のこと。
 牽制を繰り返していた周辺国の一つが、突然、ユーリスに攻め込んできたのだ。当然、平和に慣れきっていた国民は惨殺され、厳重な結界に守られていたはずの城にも、あっさりと敵の侵入を許してしまった。
 それは、まるで、この国の弱い部分全てを最初から把握されていたようにも、見えた。
 どこまでも、どこまでも、一方的な侵略の痕跡が城のあちこちに刻まれ、今もなお拡大を続けていた。あちらこちらから、剣戟の音や魔法の爆発音、そして悲鳴が聞こえてくる。
 そんな、城内において。
 アリスの姿は、あまりに場違いだった。
 身に纏ったドレスは光を吸い込んで黒く、喪服を思わせる。顔の前に垂らされたヴェールも黒く、紫苑の瞳を覆い隠している。
 そんなアリスを見つけた、もはやどちらの国に属しているかもわからない血みどろの兵隊が、奇声を上げてアリスに飛び掛ってきた。
 だが、アリスは焦ることなく、右手に持っていた黒い雨傘の柄を引き抜いた。次の瞬間には、内側に仕込まれていた細身の剣が、剣を振り下ろさんとしていた男の胸に、突き刺さっていた。
 どう、と倒れる男。アリスは振り返ることもせず、歩き続ける。
 あらかじめ把握していた隠し通路の一つに身を滑り込ませ、迷うことなく、ある場所に向けて。
 
   *   *   *
 
 かつて、ユーリス神聖国は、誰もが幸せに包まれていた。
 その中でも最も幸せだったのは、王とその后であった。二人の間の子供が、今まさに生まれようとしていたからだった。
 后は一晩苦しんだ後に、無事子供を産んだ。双子であった。
 王が最も頼りにしていた司祭は、それを知って青ざめて言った。
「双子は不吉です。光と闇、善と悪。片割れは素晴らしき聖王となるでしょうが、もう片方はこの神聖国に害を成すものとなるでしょう。闇の種子であるうちに、世界樹に還すのがよろしいかと」
 もちろん王は驚いたが、女神から世界樹を任された使徒エルヴィーネの末裔として、神聖国に害を成すものを許すことはできない。故に、闇を秘めるとされる、双子の片割れを秘密裏に葬ることを決意した。
 だが、后はそれをよしとはしなかった。どちらも、自分の大切な子供であるといって。
 そして、后は殺されかかっていた双子の片割れを連れて、城から消えた。王は慌てて領内を探させたが、結局、消えた二人を見つけ出すことはできなかった。
 結局、后は産褥で亡くなったと記録され、双子の片割れは元より存在しなかったかのように扱われた。
 王は残された片割れを大切に育て、王亡き後、聖なる力を秘めるとされる双子の片割れは、新たなる聖王スノウとして、ユーリス神聖国を治めていた。
 平和で幸福な時代は、これから先もなお、永遠に続くと思われていた。
 
   *   *   *
 
 抜け道は薄暗く、埃が積もり、蜘蛛が巣を張っていた。それは、この抜け道が、戦の中にあっても、誰にも気づかれてはいないということである。
 それもそのはず、この通路は聖王と一部の信頼される側近にのみ伝えられる、秘密の抜け道だ。アリスは、光を抑えた明かりの魔法を唱え、聞いていた通りに、複雑に分岐した細い回廊を歩いていく。争いの音は随分、遠くから聞こえてくるようだった。
 どのくらい歩いただろう、不意に目の前に石の扉が現れた。それを横に引くと、ちいさな部屋に出た。どうやら物置部屋らしく、所狭しと高級そうな調度品が置かれていて、壁にはいくつか絵画がかかっているようだった。誰もいないことを確かめて、アリスは、そっと絵画に明かりを向ける。
 それは、一代前の聖王と后の絵であった。幸福そうに微笑んで寄り添う二人の姿は、永遠の幸福を約束されたこの国の象徴であっただろう。あの日までは。
 もう一枚の絵は、聖王スノウ。聖王の象徴であるヤドリギの冠を被り、金の刺繍が施された純白の衣を纏ったその姿は、白髪に白い肌という姿と相まって、どこか浮世離れした美しさを湛えていた。
 柔らかな赤の瞳は、穏やかな笑みを模っている。それこそ、楽園の民を世界樹から見守る女神ユーリスのように。ユーリスの意に最も近い存在であった使徒の末裔なのだから、当然といえば当然なのかもしれないが。
 けれど、アリスは知っている。
 このカンヴァスに描かれた聖王と同じかたちをしていながら、その赤い瞳に、慈愛でなく埋み火を思わせる怒りを湛えていた、一人の女のことを。
 果たして、いつ物語の歯車は狂ったのか。この国が攻められた日か、后が「死んだ」日か、それとも。
 
   *   *   *
 
 アリス・ルナイトがその娘を拾ったのは、ほんの気まぐれからだった。
 街道から少し離れた林の中で、浮浪者らしいちいさな娘がうずくまっていた。傍らには、魔物に腸を食い荒らされたのであろう、女の死体が一つ。どうやら、母親のようだった。
 茫然自失の体でいる白い娘を横目に、屍に略式の祈りを――楽園に一般的なやり方ではなく、アリス自身が古くから親しんだやり方で――捧げた後、その死体を観察する。
 身体は薄汚れていて、纏った服も垢じみていたが、その細くしなやかな手足や気品ある顔立ちを見る限り、単なる浮浪者とも思えなかった。それに、血まみれの乳房の上には、精巧な細工が施された女神の聖印があった。かけられた魔法の気配からしても、正式のものだ。高位の聖職者なのだろうか。
 思いながら、つい、聖印に手を伸ばしかけると、その手を掴まれた。
 見れば、娘が獣のように牙を剥いてアリスを睨みつけ、手首をぎりぎりと締め付けていた。もちろん、痩せた娘の力だから大した痛みでもなかったが、それよりも、娘の気迫に驚いていた。
「母さまから盗みを働く気か!」
 喉から吐き出された声は、掠れてこそいたが、異様なまでの威厳があった。とはいえ、小娘に怯えるようなアリスでもない。軽く娘の手を払い、唇に艶やかな笑みを浮かべる。
「そんなつもりはないわ。死者には敬意を払うものよ。ただ、随分珍しいものをつけてると思っただけ。あなた方、旅の聖職者かしら?」
「違う」
 ぎり、と歯を鳴らして、唸るように娘は言った。
「母さまは、ユーリス神聖国の后だった。私は、その娘だ。生まれてすぐに城を追われた双子の姉だ!」
 一瞬、その言葉を理解するまでに時間がかかった。けれど、飲み込んでしまえば簡単に納得できることでもあった。
「……そう。后は産褥で亡くなったと聞いていたけれど、そういうこと」
 ならば、聖印の謎も解ける。ユーリス神聖国の王とその縁類には、女神ユーリスから直々に特別な証が贈られるという話は、それこそ、楽園の歴史を語る者の常識であったから。
 だが、今度は娘が驚く番だった。乾いた唇をぱくぱくさせて、赤い目でアリスを見つめる。
「信じる、のか?」
 きっと、今までは散々狂人の戯言と罵られてきたに違いない。まだ十にも満たないと思われる娘の目には、アリスに対する警戒の色と、それを上回る疲労の色が覗いていた。
「あなたに嘘を言っている様子はないわ。そんな嘘をついたところで、誰も得しないしね。それに、王の後継者が生まれた時に、双子の片割れを排除するのは日常茶飯事だわ。後継者を巡る争いで分裂し、もろとも倒れた国は数知れない」
 そこまで呟いて、アリスは包帯を巻いた指先を、唇につけた。こんなことをこの娘に言ったところで、何にもならないことに気づいたからだ。
「でも、そんな言葉で、あなたを救えるわけでもないわね。あなたの母君は亡くなった。あなたの身柄を保証してくれる者もいない」
「そんなものは、いらない」
 間髪入れずに、娘が言った。
「私が殺されるだけならいい。でも、母さまを追い出し、見殺しにしたあの国が憎い! 女神ユーリスは母さまを見捨てたんだ、何が女神だ、何が神聖国だ! あんな国さえなければ! そうだ、私は何もいらない、あの国さえ、滅んでくれれば……!」
 憎しみ、怒り、恨み。それらは炎となって、娘の目の中に宿っていた。この目の色は、知っている。アリスがその名を名乗るようになってから、否、アリスがアリスとなる以前から、見飽きるほどに見てきたものだ。
 そうして、そういう目をした者を、求めている。
「それなら、契約をしない、お姫様?」
 その言葉に、娘はきょとんとした顔をする。そのような表情は年齢相応なのだけど、と、少しだけ心が痛むのを感じながらも、言葉を続ける。
「私は、あなたの望みを叶える方法を知っているわ。それに見合った働きと引き換えに、だけど」
「本当か!」
 ぱっと食いつきかけた娘は、しかし、一瞬ためらいの表情を見せた。目の前の女が信用に値するか、判断してからでないと危険だと察したに違いない。だから、アリスもことさらに信用を求めることはせず、立ち上がって娘を見下ろす。
「疑いたければ疑っていいわ。あなたが確かめてからでも遅くはないわ。でも、確かめるためには、私についてきてもらわないといけないけれど」
 娘は、じっとアリスの紫苑の瞳を見つめた後に、静かに問うた。
「……あなたは、一体何者だ」
「アリスよ。アリス・ルナイト。楽園の闇を統べる『金色の王』の娘、『紫苑の魔女』」
 
   *   *   *
 
 アリスは、そっと、物置部屋を後にした。
 部屋の外にも、兵の姿はなかった。ここまでは、敵国の兵も踏み込んではいないらしく、清浄で冷たい空気に満ちていた。だが、徐々に血なまぐさい音色と、誰かが放ったのであろう炎の気配が迫っているのがわかった。
 アリスは優雅に、しかし早足に、廊下を抜け、城の端に位置する塔へと向かった。そして、天に向かって伸びる螺旋階段を、一歩、また一歩と、確かめるように上っていった。
 やがて、突然に視界が開けた。
 眼下の世界は既に、炎に包まれていた。気づけば不愉快な臭いの煙が塔の上まで立ち上っていて、アリスは思わず鼻と口を布で押さえた。
 けれど、見上げる空は、どこまでも――そう、皮肉なまでに、青かった。
 そして、そんな空を見上げて立つ、一人の女がいた。
 肩の上から流れ落ちる、流水を思わせる真っ白な髪。そして、その髪に縁取られた白い顔。金糸で刺繍された白い衣も相まって、この世ならざるもの、清浄なる水の精を思わせる。
 ヤドリギの冠を戴いたその姿は、紛れもなく、アリスが物置部屋で見た聖王スノウその人だった。
 だが、アリスは、ここに立っているのが聖王スノウであるはずがないことも、知っている。
 王の服を身に纏った白い女は、酷く穏やかに微笑んだ。
「やあ、来てくれたんだ、アリス」
 
   *   *   *
 
 ちいさかった娘は、見る間に成長して、美しき白い魔女となっていた。
 と言っても、引き伸ばされ、擦り切れつつあるアリスの感覚でのことだから、実際にどのくらいの時間をかけて娘が女になったのかはわからない。
 とにかく、アリスの下で成長した白い魔女は、父たる『金色の王』の指示に従って働くようになった。
 ルナイトの魔女は、楽園に混沌をもたらす役目を与えられる代わりに、その役目を果たした時には、『金色の王』の力を持って己の願いを一つだけ叶えることができる。白い魔女は、その点、他のどの魔女よりも目覚しい働きをしていた。剣と魔法の腕も、人を意のままに操る技術も抜きん出ており、それが『金色の王』に認められるまで、そう時間は必要ではなかった。
 ある日、ルナイトの父たる『金色の王』は、白い魔女を呼んでこう問うた。
「かわいい我が娘よ。お前の働きに応え、望みを叶える日が来たようだ。お前は私に何を望む?」
 その問いに、白い魔女は迷わずこう答えた。
「私と母さまの運命を狂わせた、ユーリス神聖国への復讐を。そのための知恵をお与えください、お父さま」
「知恵のみで構わないのかね? お前が望みさえすれば、私の力をもって、ユーリス神聖国そのものを滅ぼすこともできるのだよ」
「これは、私の手で果たさないと意味の無いものです」
「ふふ、お前らしい言葉だ。いいだろう、お前をユーリス神聖国の聖王に近づけるよう手配しよう」
 その当時、既にかつての聖王は倒れていて、白き魔女にとっては片割れである聖王スノウがその玉座に収まっていた。その聖王とよく似た姿をした魔女は、姿を変えて潜入するのかと問うが、父は悠然と首を横に振った。
「何、お前は堂々と振舞っていればいい。何しろ、聖王に姉など『いない』はずなのだから。他人の空似だと思ってくれるだろう。お前の存在を知る一部の者以外は、な。そして、お前にかけられるであろう全ての疑いは、私が排除しよう。その中で、お前はお前の望みを叶えるがよい」
 その言葉を受けて、白い魔女は身分を偽ってユーリス神聖国に侵入した。『金色の王』の言うとおり、魔女の身分を疑う者はおらず、いたとしてもその者たちはすぐに姿を消していた。すんなりと聖王と顔を合わせることに成功した魔女は、一体どんな根回しがあったのかはわからないが、聖王を守る騎士に任ぜられた。
 それからしばらくは、動きの無い日々が続いた。魔女は、傍目から見れば誠実な騎士として、影のように聖王に付き従った。そして、アリスが聞く限りでは、聖王は魔女を大層気に入っていたらしい。お忍びで町に下りる時にも、魔女の手を離すことはなかったという。
 美しく聡明な聖王と、忠実な第一の騎士は、ユーリス神聖国の誇りとして語られていた。王と騎士の姿が似ていることは、あらぬ憶測を呼びこそしたが、不思議とそれ以上にはならないままに、時は過ぎた。
 魔女が騎士として働き始めてから数年が経った頃、アリスは人目を避けて白い魔女と接触した。魔女はアリスのよく知る、ちらちらと暗い炎を揺らした瞳を向けて、言った。
「お父さまに伝えてくれ。私の望みが叶う日が来た、と」
「……動くのね」
「ああ。それと、これを」
 白い魔女は、アリスの包帯を巻いた手に、何かを押し付けた。それが、城の見取り図を描いた紙であると気づいたのは、一拍置いた後だった。
「もし、気が向いたら見届けてくれ」
 その言葉で、アリスも白い魔女の意図を察した。けれど、あえてこう、問いかける。
「それで、私に何の得があるのかしら」
「そうだな」
 ぽつり、言った魔女は微かに微笑んだ。それは、アリスが初めて見る、白い魔女の笑顔でもあった。
「歌の題材にはなるかもしれないな」
 
   *   *   *
 
 アリスは、抜き身のままだった仕込み刀を傘の中に戻し、聖王の影――白い魔女に問いかける。
「臣下は?」
「頼れる者は全員、スノウと一緒に逃がしたよ。残っているのは、私だけだ」
 魔女は、欄干に寄りかかり、朗らかに答えた。その瞳に、かつて常に宿っていた炎の色は、もはや見えなかった。アリスは額を押さえ、溜息混じりに呟いた。
「とんだマッチポンプね」
「マッチポンプ?」
 どういう意味だ、と魔女は首を傾げる。確かに、マッチもポンプも楽園には無い言葉だったか、と思い至り、言葉を付け加える。
「自分で火をつけて火事を起こして、それを自分で消すのよ。下らない自作自演、っていう意味」
「我々は、元よりそういうものだろう? 停滞した歴史を動かすために火種を撒き散らし、そして見込んだ新時代の担い手がその火種を潰すのを待つ。それが我々、『歴史の調整者』ルナイトの魔女の役目だ」
「それでも、ルナイトの役目を果たすだけなら、城に敵国を呼び寄せるだけでよかった。あなたがここに残る理由はないわ。そもそもこれはルナイトの魔女の仕事じゃない、あなたの私怨から始まったことよ」
 アリスの言葉に、魔女は「そうだな」と軽く頷いた。頭上の空と同じ、晴れやかな笑顔すら浮かべて。
「ありがとう、アリス。見届けに来てくれて」
「いいえ。正しい歴史を伝えることは、私の役目でもあるから」
 この楽園において、歴史は決して正しくない。女神の都合のよいように解釈され、語り継がれていくのが楽園の歴史というものだ。だから、アリスは己が目で全てを見極め、戯れ歌に真実を隠す。そうして楽園のありさまを語り継ぐのが、『紫苑の魔女』アリス・ルナイトの、己自身に課した役割であった。
 アリスの答えを聞いて、白い魔女は満足げに頷いてもう一度「ありがとう」と言った。
「もうすぐここも陥落する、すぐに下りるといい。敵兵が辿り付く前に、先ほどの隠し通路で抜け出すんだ」
「手ぶらで帰るのもなんだし、一緒に死んであげてもいいわよ」
 一度死んだところで痛くも痒くもないのだから、と言うと、魔女は困り顔になる。
「聖王が魔女とつるんでいたなんて思われたら、それこそ、面倒なことになる」
 魔女の視線が、既にほとんどが炎に包まれた城と、ところどころから煙を上げる町並みに向けられる。かつては美しかったのであろうユーリスの町は、既に、どこにも見当たらない。それでも。
「スノウは、いつか、この場所に帰ってくるのだから」
 白い魔女は、実の妹である神聖国の象徴――聖王スノウを、信じていた。
 熱風を肌に感じながら、アリスは、紫苑の目を細める。
「あなたは、聖王スノウを恨んでいるわけじゃないのね」
「私が恨んだのは、母さまと私を否定した、ユーリス神聖国だ。スノウは、何もしていない」
 そう言ってから、白い魔女は首を横に振った。
「……いや、最初は、恨んでいたな。私から奪ったもので、幸せになったスノウ。彼女の砂糖菓子みたいな笑顔を見るたびに、いつその首を折ってやろうかとばかり思ってた」
「でも、できなかった」
「ああ。笑えるよ、スノウが振り向いて微笑むとさ、復讐を考えている自分が、馬鹿みたいに思えてくるんだ。スノウの手は柔らかくて、スノウの声は歌うようだった。スノウは、いつだって、私のことを信じて疑わなかった。母さんが私にそうしてくれたように、私に何もかもを与えてくれた」
 全く、下らない感傷だ。
 そう言いながらも、白い魔女の横顔は優しかった。その表情は、そう、絵画で見た聖王スノウの慈愛に満ちた表情と、とてもよく似ていた。
「だから私はこうして、彼女からこの国を奪った。それだけで、十分かなと思ったんだ」
「そう」
 アリスは、多くを語らない。彼女の決断が正しいとも間違っているとも言わない。アリスは観測者であって、それ以上でも、それ以下でもなかったから。
 白い魔女も、それを重々承知だったはずだ。少しずつ、戦の怒号が近づいてきているのに気づいたのだろう、とん、とアリスの肩を押した。アリスもそれに小さく頷きを返す。
 ――別れの時だ。
「おやすみなさい、アリス。最期に会えてよかった」
「ええ。あなたもいい夢を、ブラン」
 アリスは、その言葉を最後に、白い魔女に背を向けて、駆けだしていた。アリスの姿は、誰にも見られるわけにもいかなかったから。黒い衣を捌いて塔を駆け下り、ふと塔を見上げると、凛、と声が響いた。
「ああ、今日は何て素晴らしい日だろう」
 高らかに響く白い魔女の声は、
 
「さあ、この幸福のうちに、私の幕を下ろそう!」
 
 青空の向こうに、消えていく。
 
   *   *   *
 
 その日、ユーリス神聖国は地図の上から消えた。
 それから十年後、処刑されたと思われていた聖王スノウが再び女神ユーリスの旗を掲げ、世界樹を含めた領地を電撃的に取り戻すことになる。以降、ユーリス神聖国は、かつてとは異なる軍事力をもって隣国を吸収しながら、楽園における地位を磐石のものにしていった。
 
 しかし、歴史書は、神聖国陥落から復活にかけての真相を語ることはない。
 その背後に、悲しい双子の物語があったことを、語ることはない。
 唯一、吟遊詩人の間に自然と広まった叙事詩に、忠義に果てた「ブラン」という騎士の名が、辞世の言葉と共に伝わっているのみである。

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