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不思議の国の紫苑 コンバラリアの行方

しあわせの王子

しあわせの王子【The Happy Prince】
 オスカー・ワイルドによる短編小説。巨大な王子の像が、ツバメに頼んで、己を飾る宝石や金箔を貧しい人々に与えてゆく。やがて冬が訪れてツバメは死に、みすぼらしい姿になった像は人々に見捨てられ、引き倒されてしまうが。
 この話に触れるたびに、最後に残った鉛の心臓のことを考える。その心臓には、鳴り響く生命の鼓動があったのだろうか。もし、そうだとしたらうらやましい限りだ。彼はきっと、かつての私よりもよっぽど「人間らしかった」はずだから。
 
 
 
 ある夜、アリスとその連れの男は、ちいさな町の宿で歌を披露していた。
 表向きは放浪の詩人であるアリスは、従者など必要としない。だが、その頃のアリスは、気まぐれに一人の男に身の回りの世話をさせながら、二人で方々を巡っていた。
 歌うアリスが抱えるのは愛用の八弦琵琶、そして連れの男は黙々とアリスの歌に合わせて風奏盤を奏でる。定番の叙事詩に領主を皮肉る戯れ歌、最近流行りの歌まで歌ってみせれば、それなりの銀貨は稼げる。それこそ、アリスと連れの宿代に加え、一杯の酒を飲むくらいは。
 今日も、適度なところで歌を切り上げ、アリスは葡萄酒を、連れは強い蒸留酒をちびちびやりながら、少し遅い食事にありついていた。二人の間に会話はない。アリスはそれなりに喋る方ではあるが、連れは「必要が無い限り」口を開かない。だから、アリスから喋りかけない限り、男は決して口を開かなかった。
 その時。
「いやあ、先ほどの歌は素晴らしかったですよ」
 そう言って、自分のグラスを手にアリスの横に腰掛ける男がいた。町の住人らしい男はアリスと連れの分の追加の酒を頼むと、アリスに向かって小声で言った。
「その腕を見込んで、一つ、頼みがあるのですが」
「話だけは聞くわ。引き受けるかどうかは別として」
 アリスが応じると、連れの男がちらりとアリスを見たが、その視線に特に意味はなさそうだった。町の男は小さく息をついてから、言った。
「私の娘のために、歌を、聞かせてやってほしいのです」
 
 
 話は簡単だった。男の娘は重い病気であり、ほとんど寝台から動けない日々が続いている。そんな娘に、せめて外の世界の物語や、楽しい歌を聞かせてやってほしいとのことだった。
 食事と一晩の柔らかな布団、そしていくらかの銀貨と引き換えにそれを引き受け、翌日、アリスと連れは父親である男の家に招かれ、娘と対面した。
 娘は、癖のある茶色の髪を揺らし、どんぐりのような眼で二人を迎えた。表情は明るかったが、顔色は悪く、掛け布団の上に載せられた腕は、枯れ枝のように細かった。ほとんど寝たきりだという父親の言葉は、誇張でも何でもないらしい。
「お父さん、この人たちはだあれ?」
「旅の吟遊詩人さんさ。お前に、色んな歌やお話を聞かせてくれるそうだ」
「本当? 嬉しい!」
 無邪気に喜ぶ娘に、アリスは、詩人としての偽名を名乗った。娘はきらきらと目を輝かせて二、三度頷いた後、アリスの連れに視線を向けた。
「こっちのお兄ちゃんは?」
 問われても、アリスの横に立つ連れは名乗らない。それもいつものことだったので、アリスがおどけて娘の問いに答える。
「お兄ちゃんは、ぼんやり屋さんでね。あんまりぼんやりしてて、自分の名前をどこかに置き忘れてきちゃったのよ」
 連れは、ちらりとアリスを見たが、特に抗議のつもりもないらしく、すぐに虚空に視線を戻した。本当に、張り合いのない男である。
 娘はしばらく不思議そうに連れを眺めていたが、すぐに興味はアリスがこれから歌う歌に移っていた。
「ねえねえ、吟遊詩人さんって、いろんなお話を知ってるんだよね?」
「そうね、あなたはどんなお話が好きかしら?」
「あたしね、お姫様が出てくる話が好き。黒いお城の鏡姫とか」
「あら、それなら私、誰も知らない鏡姫の秘密の歌を知ってるわ。聞きたい?」
 聞きたい、と娘が声を上げたのを確かめて、アリスは傍らの男に声をかける。
「鏡姫五章、風奏盤よろしく」
 すると、連れの男は初めて口を開いた。
「琵琶は弾かないのか」
 冴えない見かけと茫洋とした表情に似合わぬ、歯切れのいい言葉遣いに、声変わり前の少年のような高い声。それが意外だったのか、娘が目を見開いたのを視界の端に捉えつつ、アリスは露骨に眉を寄せて言った。
「あなた、音少しでもずれてると嫌な顔するでしょ」
 連れは否定しなかった。これだから絶対音感持ちは嫌なのだ、と思いながらアリスは八弦琵琶を置いて、喉の調子を確かめる。連れは風奏盤を構えて、アリスの合図に従って、音を奏ではじめる。ごつごつとした、決して見た目がよいとは言えない短い指が、白黒の鍵盤の上を走る。
「それでは、今宵はちいさな淑女のために、一つ、遠い日の記憶を語りましょう」
 アリスは、唇を開いて声を張る。楽園の、語られざる秘密を織り込んで、風奏盤の音色に合わせて虚実入り混じった叙事詩を歌う。
 ついと娘を窺えば、少女は目を丸くしてアリスと連れをじっと見つめていて、滑稽な場面では楽しげに笑い転げ、緊迫した場面では一緒になって神妙な顔つきになる。大人でも子供でも、反応のいい客はいいものだ。アリスは口の端に笑みを浮かべ、歌い続けた。
 そして、一つの歌が終わったところで、娘は小さな手をぱちぱちと鳴らした。
「素敵なお歌。あたし、どきどきしちゃった」
「ふふ、ありがとう」
「お兄ちゃんの奏盤も、とっても上手。風奏盤って、こんなに綺麗な音が鳴るのね」
 連れは何も答えず、表情一つ変えずに、ただ、ちいさく頷くだけだった。
 それから、娘にいくつかの歌と物語を語ってみせ、一つ、二つ言葉を交わしたところで、父親が部屋に入ってきた。
「歌い通しでは疲れるだろう。旅人さんたちにも、休憩させてあげよう。お前も、少し寝なさい。そうしたら、また、色んなお話を聞かせてもらえるよ」
「はーい」
 残念そうにしながらも、娘は素直に布団を被った。娘の顔は、確かに、最初に見た時よりも赤みを失っているようだった。
 アリスと連れは客間に通され、茶とこの地方の名産である甘い果実を混ぜた菓子を振舞われた。
「そういえば」
 ぽつり、と。
 己の茶を用意して前に座った父親に、突然連れが話しかけた。己から話を切り出すことは、連れには珍しいことだった。父親は、連れの見た目にそぐわぬ声に少し驚いたのか、「はい?」と上ずった声を出した。
 構わず、連れは言葉を続ける。
「娘さんは、どういう病気なんだ。病気とは聞かされているが、詳しい話は聞いていない」
「ああ、すみません。しかしそれが、私にもよくわからないのです」
「わからない?」
「はい。町の司祭さまにも、首都の専門家にも診せたのですが、今までに例のない症状で、原因がはっきりしないと言われてしまって。うつる病気ではない、らしいのですが」
「そうか」
 連れはそれきり、口を閉じた。父親は目を白黒させて連れを見ていたので、アリスが溜息混じりに付け加える。
「この人、何考えてるかよくわからないでしょう。気にしないで、いつもこうだから」
「は、はあ」
「それより、このお菓子美味しいわね」
 アリスは、当たり前のように話を逸らし、父親と他愛の無い話を続けた。
 その間も、出された茶と菓子にほとんど手をつけず、連れはじっと娘の部屋の方を見つめていた。そうすることで、娘の様子を透視でもしようとしているのか、氷色の目はほとんど瞬きもせず、ある一点を見据えている。
 だから、アリスは父親との話が一旦途切れたところで、小声で問うてみる。
「病人に、情でも湧いた?」
「情、なのかな」
 首を傾げ、連れは少年の声で呟く。だが、問われてもアリスはこう答えるだけだ。
「そんなもの、自分の胸に聞いてみなさいな」
 連れは、これまた珍しく、微かに眉を寄せてた。しかしすぐにいつも通りの無表情に戻り、茶をちびちびと啜り始めた。多分菓子には手をつけないだろうと判断し、アリスは勝手に連れの分の菓子までつまんでおくことにした。
 そうしているうちに、一時間ほどが過ぎて。
 突然、娘の部屋から、激しく咳き込むような音が聞こえてきた。父親は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、血相を変えて娘の部屋に向かった。そして、意外にも連れがほとんど同時に立ち上がって、父親と並ぶようにして客間を後にした。
 一人、取り残されたアリスは、小さく溜息をついて、呟いた。
「ま、気にかけるのも当然か」
 そうして、一拍遅れて二人の後を追った。
 娘は蒼白になり、汗を滲ませ肩で息をしている。何とか声を出そうとしているが、それは引きつるような激しい咳にしかならない。咳き込むたびに、娘の口からは血が吐き出され、尋常でない様子が窺えた。
 すると、連れがアリスを振り返った。鋭い目でアリスを見据え、明朗な発音でこう言った。
「行ってくる」
「どこに?」
 連れはアリスの問いが聞こえなかったのか、足早にその場から立ち去ってしまった。父親は呆然と娘と連れが消えていった扉を見比べ、アリスは、椅子の上に置き去りにされていた、風奏盤の鍵盤を一つ鳴らして溜息をつく。
「螺子の外れた奴の考えることは、さっぱりわからないわ」
 
 
 夜になっても、男は帰ってこなかった。
 娘の容態は、刻一刻と悪化していく。父親はその看病で手一杯で、客人の相手などしてはいられない。ただ祈るように、娘の手を握り締めている。
 もちろんアリスには知ったことではなかったのだが、苦しむ娘を見捨てて消えるのもはばかられた。
 永遠の命を持つアリスは、人並みの病を知らない。毒を盛られて死んだことは何度もあるが、自然の病にはとんと疎い。だから、何故娘が苦しんでいるのかわからぬまま、せめて少しでも苦しみが和らぐよう、父親の手伝いをしながら願うことしかできなかった。
 その時だった。
 激しく玄関の扉が叩かれた。慌てて飛び出していった父親が、悲鳴まじりの声をあげる。
「ちょっと、どうしたんですか、その傷!」
「手が滑った。大した傷じゃない。それよりも、台所を貸せ」
「台所って……」
「早くしろ、娘が死んでもいいのか」
 淡々とした声と共に、アリスの連れが、部屋の前を大股に通り過ぎるのが、開け放ったままの扉越しに見えた。その姿は明らかに尋常ではなかった。片腕はだらりと垂れ、赤黒い液体に塗れている。それ以外にも、切り傷や擦り傷を大量にこしらえ、血を滲ませている。
 しかし「娘が死んでもいいのか」という連れの言葉に、父親は即座に反応した。男を追い越し、台所へと案内するのがわかった。アリスもふらりと部屋を出て、連れに追いすがる。
「何してたの」
「材料を」
 言って、怪我をしていない手に握っていた皮袋を持ち上げる。説明になっていなかったが、意図は十分に伝わった。アリスは溜息混じりに連れの手を取って、癒しの魔法を施す。
「応急処置だけど。片手じゃ、ろくに調合もできないでしょ。あの子は私が看てるから」
「ありがとう」
 連れは素直に礼を言い、父親に向き直って指示を飛ばす。
「これを細かく磨り潰してくれ。終わったらこっちを。その後、水で溶いて、二対一の割合で混ぜる。それが終わったら言ってくれ」
「あ、ああ」
 そんな声を背中に、アリスは部屋に戻った。何とか咳は収まったらしく、娘がか細い声で聞いてきた。
「お姉ちゃん、お父さん、は……?」
「あなたのお父さんは、今、あなたのために、お薬を作ってるわ」
「でも」
 それ以上は、声にならず、苦しげな咳が飛び出した。ただ、娘が何を言わんとしていたかくらいは、わかる。
 娘の病は、誰にも原因のわからない奇病だ。症状の一つ一つを緩和する薬はあったにせよ、病そのものを抑える薬は存在しなかったに違いない。だから、薬と言われてもぴんと来なかったのだろう。
 その時、ばたばたと足音を立てて、父親が駆け込んできた。手には、水に溶いた薬が入った器が握られている。
「ゆっくり、全て飲ませてくれ。少なすぎても、効果は出ない」
 連れの声が飛んで、父親は息を整えた。アリスが娘の体をゆっくりと起こしてやると、そっと、娘に器の中の薬を飲ませる。咳込みそうになりながらも、娘は、何とか薬を飲み下していく。そして、器が空になったところで、娘の体を再び寝台の上に横たえた。
 娘は、しばらく苦しそうに息をついていたが、その呼吸がふと軽くなり、ぼんやりと天井を見上げていた目も伏せられる。顔色も、みるみるうちに赤みを取り戻していくのが、わかった。
 あまりに劇的な効果に、驚いたのは父親の方だった。娘の呼吸が完全に整い、眠りに落ちたのを見届けて、ゆっくりと、連れの男を振り向いた。連れは、どこまでも淡々とした口調で言った。
「後は、一晩様子が変わらなければ、ひとまず大丈夫だ。看ていてやってくれ」
「あ、ありがとう、ございます……!」
 その場にひれ伏さん勢いの父親を、凍った目で一瞥して。連れは、傷だらけの手を胸に当てて、それから言った。
「少し疲れた。横になる場所を貸してくれ」
 
 
 翌朝、別室で眠るアリスたちを起こしに来た父親は、目の下に黒々とした隈こそこしらえていたが、その表情は晴れやかだった。
「どうやら、症状は完全に収まったようです。今、目が覚めましたが、元気そうですよ」
「よかったわね」
 その言葉を聞いて、アリスも体に入っていた力がふっと抜けた気がした。自分でも意識しないうちに、娘の容態を案じていたらしい。連れは何事もなかったかのように、いつも通りの無表情を決め込んでいたが、突然、ポケットから紙切れを取り出して、父親に渡した。
「これが、薬の材料と調合の分量。単なる薬屋では手に入りづらいものもあるが、店の者に頼めば、取り寄せることは可能なはずだ。あらかじめ多めに頼んでおけばいい」
 今日は急ぎだったから現地調達だったけれど、と付け加えて男はそれきり口を噤んだ。そして、父親が目を白黒させている間に、身を翻して娘の部屋に向かった。
 やっとのことで我に返った父親が、その場に残っていたアリスに語りかけてくる。
「本当にありがとうございます、あの方は司祭さまなのですか?」
 この時代、病人を看護するのは、医療を専門的に学んだ司祭の役目だ。だが、アリスは小さく首を横に振る。
「いいえ。ただの家無しよ」
「まさか」
「家も無いし、名前も無い。私は、それ以上のことを知らないわ」
 もちろん、大嘘だ。だが、連れのことを思えば――そして、この善良な親子のことを思えば、それ以上のことは言うべきではなかった。アリスは魔女だが、悪魔ではなかったから。
 父親は、アリスの言葉にも納得していない様子ではあったが、今はそれよりも娘のことが先だと気づいたのだろう。朝の食事を作るべく、台所に戻っていった。
 アリスは、父親の手伝いをしようかと一瞬悩んだが、とりあえず娘の顔を先に見ようと思って、娘の部屋の扉をそっと開ける。
 寝台の上に座った娘は、その横に座る連れに向かって、明るい表情で語りかけていたところだった。
「あのね、すごく体が楽になったの。お兄ちゃんのお薬のおかげだよ。ありがとう、お兄ちゃん」
「そうか、よかった」
 よかった、なんてさっぱり思っていないような、平坦な声で連れは言った。
 そして。
「だけど、お前は助からない」
 全く同じ口調で、死を、宣告する。
 娘の表情が強張った。まさか、と唇が動く。ただ、アリスが想像していたような恐慌はなかった。言われるまでもなく、娘にも薄々わかってはいたのだろう。自分の病のことも、自分の未来のことも。
 ただ、ほとんど見ず知らずの男に、こうもはっきり言い切られるとは、思ってもみなかっただけで。
「自分でもわかっているだろうが、世界樹に還る日はそう遠くない。残りの時間、後悔しないように生きろ」
「どうして? どうして、そんなことがわかるの?」
 囁くように、しかしはっきりと、男は言った。
「俺もだから」
 ひゅっ、と。娘の喉が鳴った。それは多分、病のせいではなかったと思う。男は、娘の視線を受け止めながらも、表情を動かしはしなかった。ただ、凍りついた色の瞳で、娘を見つめているだけで。
「お兄ちゃん、も?」
「そう。薬と手術で無理やり進行を遅らせてるが、あと数年保てばいい方だ」
 一時的に症状の進行を抑える薬も、自分のために調合したことがあるから知っていたに過ぎない。そう言って、男は黙った。
「怖くないの?」
「さあ」
 男はこくりと首を傾げた。からっぽの表情のまま。
「怖いって感覚が、わからないから。何も、感じられないから」
 それが、事実であることは、共にいるアリスが一番よく知っていた。連れには恐怖というものがなかった。だから、痛みや苦しみを、それと感じることはできても、この男の足を止める理由にはならない。だから、自分が傷ついても平気な顔をしているし――他人が傷ついても、同じことだった。
 ただ、わからなくても、考えることはできる。思いを馳せることはできる。共有こそできなくても、わかりたいと望むことは、できる。そう言って、氷河の色の瞳で、遠くを眺めていたことを思い出す。
「俺には恐怖がわからない。だが、苦しみや、迫る死が恐怖を呼ぶということも、知識としては理解している。だから、せめて、苦しみくらいは和らげられればいい。そう、思った」
「もう、苦しくないよ。あたしは、大丈夫」
 だけど、と。娘は、連れの痩せこけた頬にそっと触れる。
「お兄ちゃんの方が、苦しそうだよ」
「俺が?」
「うん。お兄ちゃん、無理してるように見えるもん。怖くないなんて、何も感じてないなんて、嘘だよ」
「そんなことは……」
「それなら、大丈夫だって、笑ってみせて」
 娘は、膝の上の布団を握り締めて、真っ直ぐに、連れを見つめていた。連れは、微動だにせず娘の視線を受け止めていた。変わらぬ無表情ではあったけれど、微かな動揺を、その指先の震えに託して。
 やがて。
「大丈夫」
 ぽつり、と。乾いた唇が、言葉を紡いだ。
「大丈夫。俺は、嘘はつけないから」
 その顔に浮かんだのは、酷く不恰好な、笑顔とも言えない表情だった。口元を醜く歪めて、目はどこまでも冷たい色を湛えて、それでも、笑おうとしていることだけは、確かだった。
 娘は、そんな連れをどんな思いで見つめていただろう。アリスにはわからなかったけれど、柔らかな微笑みを返したことだけは、わかった。
 連れはすぐに無表情を取り戻し、娘の体を、そっと寝台に横たえた。
「もう少し、寝ていろ。症状は収まっても、体は休ませた方がいい」
 小さく頷いて、娘は目を閉じた。まだ、薬が残っていたのか、それとも体が眠りを欲していたのか、娘はすぐに安らかな寝息を立て始めた。
 そんな娘の耳元で、連れは、何かを囁いた。アリスの耳に、連れの声は聞こえなかったけれど、唇の動きを見る限り、
「どうか、しあわせに」
 そう、囁いたように、見えた。
 そして、連れは音もなく立ち上がり、アリスを振り返ってこう言った。
「行こう、アリスちゃん」
 
 
 そして、アリスと連れの男は、今、旅の空の下にいる。
 父親と娘には何も言わずに、あの家をこっそりと抜け出して。町の門を抜けて、街道を南へと歩き始めていた。
 アリスは、ふと、半歩後ろを歩く連れに向かって問いかける。
「お別れはよかったの?」
「お別れ?」
「あの子に」
 ああ、と連れは気の無い声を吐き出して、
「どこにいたって、繋がってるしな」
 それだけを言って、口を閉じた。それで、この話は終わった。
 アリスは八弦琵琶を抱え、連れの男は風奏盤を担ぎなおし、言葉少なに次の町へと向かった。

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