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不思議の国の紫苑 コンバラリアの行方

不思議の国のアリス:I

不思議の国のアリス【Alice's Adventures in Wonderland】
 ルイス・キャロルの童話。少女アリスが服を着た白い兎を追って兎穴に落ち、おかしな人や動物が織り成すナンセンスに満ちた世界を冒険する物語。
 少女アリスの見た夢は、お菓子とゲームと不思議な生物と、駄洒落じみた言葉遊びに満ちていた。それは、少女の中に渦巻く世界そのものだったのかもしれない。
 そして、私が今見ているこの世界も、ある意味では、一人の少女の夢に違いない。
 
 
 
 ――灰の町。
 それは、地図には載っていない、海の上に浮かぶちいさな町。常に重たい曇り空の下にある、言葉通りに灰色の町。
 それが、『紫苑の魔女』アリス・ルナイトの故郷だった。
 混沌の導き手であり、戦の火種を撒き散らす『ルナイトの魔女』。彼女らを率いる姿なき「父」、『金色の王』によって築かれた灰の町は、女神に弓を引き、楽園を追われた者たちが、最後に辿り付くことになる咎人の都として伝えられている。
 事実、灰の町に流れ着くのは、楽園で息をすることも許されない犯罪者、女神の嘘を暴いて神殿に追われた異端、そして人と違う姿で生まれたばかりに排斥された忌まれし者がほとんどだった。
 そして、掃き溜めのような町に蠢く者たちを観測することが、『金色の王』の唯一の実子、不老不死の命を持つ『紫苑の魔女』アリス・ルナイトに与えられた役目だった。
 だから、その日もアリスは、相棒である琵琶を背負い、町の中で一番背の高い塔を上る。
 魔女たちが暮らす塔、『アヴィス・トゥリス』よりも高く聳えるその塔は、今から数百年前、一人の狂人が空を目掛けて築きはじめたものだ。空は女神の広げた天幕であり、星は女神の零した涙で出来た宝石である――という伝承を鵜呑みにしたのか、その生涯をかけて、たった一人で、塔を築き続けた。
 結局、夢は叶わぬまま男は死に、永遠に建造中となってしまった塔は、その本来の目的も忘れ去られて、ただ、広場の真ん中にぽつんと取り残されている。
 魔女アリスは、塔が好きだった。
 空に程近いこの塔に登れば、澱んだ空気に満ちた地上を、一時でも離れることができたから。
 この塔から見下ろす混沌の町は、まるで、モノトーンの箱庭か、何が出てくるかわからない玩具箱のようでもあって、アリスの目を楽しませてくれたから。
 そして。
 薄暗い石壁に囲まれた、長い長い螺旋階段を上ってでも、会いたい人がそこにいたから。
 最後の一段を上りきったところで、視界が開けた。
 そこは、ちいさな鐘楼だった。長らく放置されていたためか、うっすらと白いものに覆われた鐘が、石造りの部屋の真ん中に吊り下げられ、その周囲にはアリスにも詳細な仕組みはわからない、自動鐘撞き機巧が取り付けられている。
 その鐘の向こう側。町を一望できる窓に腰掛けた先客が、重そうに頭を巡らせ、氷河の目を細めて笑う。
「よう、アリス」
「お久しぶり、鋼鉄狂」
 女神と世界樹が厭う鋼鉄に魅入られた背教の徒。楽園の理を否定する異端の中の異端。そのような意味を持つ『鋼鉄狂』の名を背負う者が、楽園の長い歴史の中に、ほんの数人だけ存在する。
 この頃の鋼鉄狂は、白髪交じりの黒髪をした小男だった。この男が、アリスが観測してきた中でも最初の鋼鉄狂だった。
 ある日、ふらりと灰の町に現れ、そのまま町の片隅に居ついたこの男が、一体どのような人生を送ってきて、何故灰の町にたどり着いたのかは知らない。
 ただ、アリスがその男を初めて観測した時から、鋼鉄狂の体はその大半が現在の技術では考えられないほど精巧な機巧仕掛けであり、また鋼鉄狂自身、天才的な頭脳と豊富な『存在しない時代』の知識を持つ、稀有な異端研究者であった。
 それと同時に、誰もが認める「ひとでなし」でもあった。
「そうさな、久しぶり、久しぶりだ。何日ぶりかな。ひい、ふう、みい……」
 螺子の緩んだ笑みを浮かべて呟く鋼鉄狂は、いつも通り薄汚いトランクを抱え、ほとんど白いところのない白衣を身に纏っていた。そのトランクにも、白衣にも、油ぎった黒髪の間から見える頬にも、まだ赤い色を残した液体が付着していて、鉄錆じみた臭いを放っていた。
「また、潰してきたの?」
 横に腰掛けたアリスの問いに、鋼鉄狂は「まぁなあ」とけたけた笑いながら答えた。
「面倒くせえ、影追いの虫けらどもがいたからさあ。こう、ぷちっとね」
「相当、神殿に嫌われてるのね、あなた。本来、灰の町に影追いなんてありえないもの」
 神殿の異端審問官、影追い。善良な市民の間では伝説として語られる闇の狩人も、女神の嘘を暴くことを生業とする異端研究者にとっては、伝説でも何でもなく、最も身近な脅威だ。
 だが、この灰の町は、地図にも載らない――女神ユーリスと神殿が存在を認めない町。言い換えれば、女神が暗黙裡に「見逃している」町だ。故に、本来神殿の狗である影追いが、異端研究者を追って現れることもないはずなのだ。
 しかし、鋼鉄狂が灰の町に現れてから、アリスは何度も影追いを観測している。この町の作法を知らない愚かな影追いを、己の手で葬りすらした。
 とにかく、女神とこの町との間の不文律を破ってでも、影追いを放つだけの理由が、この男にあるということだ。
「別に、理由はどうでもいいけどね。あなたのせいで影追いにうろつかれると、正直迷惑なのよ。他の異端もみんな怯えてる」
「ははっ、虫けらなんざ、片っ端から潰しちまえばいいじゃねえか」
「誰もがそう言えるなら、この町の存在意義なんてあったもんじゃないわ」
「強い者が弱い者を淘汰するのがこの町の不文律だろうに、日和ったこと言うなって。たかが影追いの一人や二人、十人や百人でぎゃあぎゃあ言うもんでもねえだろ、アリスちゃん。これ以上うるさく鳴いたら、その綺麗な腕もぎ取るぜ? あ、んなことしたら、余計うるさくなっちまうか。あーあー、面倒くせえ、面倒くせえなあ……」
 完全に常軌を逸した、身勝手な論理を振りかざし、鋼鉄狂はがしがし頭を掻く。
「そうだよ、面倒くせえんだよ。神殿も、この町も、楽園っていう世界も、全部、全部さ。結局は、どこに逃げたって女神と王様の手の上じゃねえか。どいつもこいつも阿呆踊り、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃあ、ってな。はは、あはは」
 獰猛な獣を思わせる歪な笑顔、支離滅裂な言葉。けれど、凍りついた緑の双眸だけは、酷く冷徹な光を帯びて、灰色の空を見つめている。
 その、凍れる瞳を横目に見つめながら、アリスは足を窓の外に投げ出して、ぽつりと問うた。
「あなたは、踊らされる人生を、不幸だと思っているのかしら」
 すると、鋼鉄狂は、緑の瞳を丸くして、それから――不意に、穏やかな声で言った。
「いや、笑っちまうほど幸福な人生だったよ。俺様はな」
 思いもしない答えを受けて、紫苑の瞳を見開くアリスに、鋼鉄狂は、今までの気違いじみた態度から一転、理性に満ちた微笑みを向ける。
「わかってねえなあ、アリスちゃん」
「何を」
「異端研究者ってのはなあ、面倒くせえ人種なんだ。この楽園が『存在しない時代』の屍の上に築かれた女神の箱庭なんだ、って気づいちまって、何もかもが嘘っぱちに見えて、自分が何のために楽園で息をしてるのかも、わからなくなっちまう」
 それは、アリスもよく知っている。アリス自身は異端研究者とも言えない立場にあるが、長い生の中で見つめてきた異端研究者は、そのほとんどが、生まれる時期を誤った天才ばかりだった。
 彼らにとって、女神の理不尽な理に満ちたこの楽園は、息苦しすぎるに違いない。事実、目の前の鋼鉄狂も、アリスの目から見る限り、楽園という枠組みには決して収まらない存在だった。
「それでも、異端研究者って奴あ、このくそったれな世界が大好きで仕方ねえんだよ」
 そうでなきゃあ、毒でもあおってくたばってるか、とっくにこっから飛び降りてるだろうな、と鋼鉄狂は眼下の町並みを見下ろして笑う。
「このくそったれな世界に生まれて、くそったれな連中と出会って、そいつらと過ごす日々が何よりも幸せだって思っちまう程度には、俺様もくそったれなんでねえ」
 鋼鉄狂の氷色の目は、ここではない、遥か遠くを見つめていた。きっと、この灰色の空の向こうに、愛する人と共に、彼が目指した世界があるのだ。
 もう、二度と届かないであろう幸福――青空が。
 ゆるり、と空に向かって武骨な指を伸ばし、鋼鉄狂はきっぱりと言った。
「だけど、『わが生涯に一片の悔いなし』と胸を張るためにゃ、最後の仕上げをしねえといけねえのさ」
「最後の仕上げ?」
「俺様と、何よりも、俺様の一番大切な奴を侮辱した野郎を、ぶちのめしてやるのさ」
 くくく、と。鋼鉄狂は喉で笑って立ち上がり、アリスに背を向ける。
「それさえ済みゃ、この町も、また静かになるさ。影追いも、全ての元凶も消えて、きれいさっぱり元通り。それまでは、悪ぃが好きにさせてもらうぜ」
「……鋼鉄狂、あなたは」
「アリスちゃん」
 アリスの言葉を遮って、鋼鉄狂は背を向けたまま言った。
「お前の歌、結構好きだったぜ。ちょいと、音が高すぎたけどな」
 鐘が鳴る。
 夜の訪れを告げる、鐘が鳴る。
「じゃあな、アリス」
 アリスは、思わず身を乗り出して、鋼鉄狂の背に向かって叫ぶ。
 けれど、最後の言葉は、鐘の音にかき消されて――。

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