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不思議の国の紫苑 アステエルの御伽話

不思議の国のアリス

不思議の国のアリス【Alice's Adventures in Wonderland】
 ルイス・キャロルの童話。少女アリスが服を着た白い兎を追って兎穴に落ち、おかしな人や動物が織り成すナンセンスに満ちた世界を冒険する物語。
 所謂「夢オチ」というやつだが、夢だからこそ許される物語だろう。永遠にあのような世界に置かれていたら、流石の空想少女も発狂しかねない。
 さて、私は未だに正気でいるのか、それとも既に狂っているのか。その判断は聞き手のあなたに委ねようと思う。
 
 
 
 アリス・ルナイト。
 それは、楽園を睥睨する「観測者」の名前だ。
 不老にして不死の肉体に、金色の鱗に覆われた異形の両腕を持つ『紫苑の魔女』。
 楽園で起こる争いの裏には、必ずルナイト一族の名前がある。楽園にわだかまる深い深い闇の担い手であるルナイトの魔女の中でも、最もその名を知られた者の一人、それが『紫苑の魔女』アリス・ルナイトである。
 と言ったところで、『紫苑の魔女』が具体的に何をするわけでもない。自ら戦を導き楽園に混乱をもたらそうとする他の魔女と違い、アリス・ルナイトはただそこにいるだけ。その場で全てを観測し、記録することが『紫苑の魔女』の役目なのだ。
 そして『紫苑の魔女』のもう一つの役目は、歌うこと。
 古びた八弦琵琶を奏でて歌うのは、始まりから今までの断章を綴った、楽園の歴史に限りなく近い物語だ。「限りなく近い」と言い置いたのは、それがアリス・ルナイトという一人の女の視点によって解釈された「物語」であるからに他ならない。
 物語である以上、必ずしも正しさは必要ない。「聞かせる」ことを目的とした歌に脚色は付き物であり、全てを了解した上で、真実とも嘘ともつかない叙事詩を歌う。
 歌いながら移り行く楽園を観測し、観測によって得た記録を物語へと変えてまた歌い伝える。この循環を幾度と無く繰り返しながら楽園を漂泊する吟遊詩人。それが『紫苑の魔女』という女の生き様である。
 故に、アリス・ルナイト――私は今日も『楽園』と名づけられた不思議の国を彷徨い、全てを観測する。
 それ以上を望まれてはいないし、望みもしない。この永遠とも思える命の尽きるまで、目に映るありのままの楽園をありのままに歌う、それが自分の在り方だ。
 そんな生き方を悲しいと称したのは誰だっただろう。傲慢だと称したのは誰だっただろう。長い生の中で擦り切れていく記憶の中から湧き出る声が、時々頭の奥底でちらつく。
 しかし、まあ……知ったことではない。
 自分は自分で人は人。自分の生き方を人にどうこう言われる筋合いはない。
 ――さて、今日も聴衆が集まってきたようだ。
 愛用の八弦琵琶の弦をきりきりと巻き、音色を確かめる。微かに歪みのある張り詰めた音が空気を震わせる。少し音がずれている気はするが、まあこんなものだろうと潔く諦める。
 数百年と繰り返してきている調弦だが、どうも正しい音を取るのは苦手だ。音感、というものがどうも欠けているのかもしれない。音楽を扱う者としては致命的だ。
 それでも、歌うことには今のところ支障ないのだから面白いものである。歌っている間に耳を塞ぐような輩は見たことがないから、自分が音痴だという可能性は切っていいだろう。そのくらいの自負がなければ、吟遊詩人などやっていられない。
 爪や鱗で弦を傷つけないよう包帯を巻いた指先で、そっと、弾きなれた旋律を奏でる。八分の六拍子、それが、実際には遠い日に失われた歌の旋律であることを知る者はこの場にはいないはずだ。
 そんな感傷から意識を現実に引き戻したのは、聴衆である子供の声だった。
「お姉ちゃん、今日は何の歌を歌ってくれるの?」
 そう、過去に思いを馳せている場合ではない。
 確かに私は過去を歌う、だがそれはこの先に繋げるためだ。感傷に浸るためではない。相棒の琵琶を持ち直し、聴衆に笑顔を向ける。聴衆には子供が多い。どんな時代も、遠い日の物語は子供たちの間で共有される。成長していくうちに、やがて自分とは関わりの無い遠い物語に気を配る余裕など無くなっていくものだから。
 それでいい。それでいいのだ。子供の頃に刻んだ物語は、きっと、意識せずとも血の中に流れ続けるだろうから。過去というのは、得てしてそういうものだ。
 指先で軽く弦を爪弾き、私は前を見る。自分を見つめる彼らの目を、一人ひとり見つめ返す。
「何がいいかしら。緑竜の王国に仕えた騎士の物語にしましょうか、それとも、使徒エルヴィーネとアルベルトの物語にしましょうか」
 私の言葉が終わらないうちに、子供たちはあれがいいこれがいいと声を上げる。その一つ一つに耳を傾け今日語るべき歌を見つけ出そうとしていた、その時だった。
 ――あなたの物語を、聞かせてください。
 か細い声が、脳裏に閃いた。
 はっとして、辺りを見渡す。だが、声の主は見当たらない。
 それはそうだ、見つかるはずもない。これは記憶の中の声だ。自分の長すぎる人生の中で、ただ一つだけ、擦り切れることなく響き続ける声。それは優しくて、温かくて、それでいて悲しすぎる記憶だ。
 悲しすぎるけれど、決して、忘れてはいけない記憶だ。
 これは、私が楽園を観測する理由、物語を歌い続ける理由。そう、私が今ここで息をしている理由そのものだから。
 子供たちの期待の視線を受け止めて、私は琵琶を抱えなおして笑みを深める。
 さあ、かつて彼女らが夢見た太陽の下で、
「それじゃあ、今日はね――」
 
 
 不思議の国の、話をしよう。

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